| 2008年5月18日 三位一体主日 「命の息」 |
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創世記二章四節の後半からにこのようにあります。「主なる神が地と天を造られたとき、……主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」人間は、土の塵でつくられ、神がそこに息を吹き入れて生かしてくださった、そもそも人間は土の塵にすぎないというのです。御言葉は、そういう人間の弱さ、はかなさを見つめています。 この創世記二章が書かれたのは、紀元前1000年頃、ダビデやソロモンの時代であったと言われています。イスラエルの歴史の中で最も繁栄した時代です。その豊かさの中で、人々は、自分たちの力こそが最も確かなものだと思い違いをするわけです。そういう繁栄の只中で思い上がった人間に対して、人間は塵にすぎない。神が命を取られるなら、塵に帰っていくしかない、そういう存在であることが語られているのです。 塵にすぎない人間 この創世記二章にある塵とは、風が吹けば崩れてとんで行ってしまうような、小さなもののことです。聖書は、人間とはそういう弱さ、乏しさをもったものであるというのです。 しかし今日の御言葉から、このような人間の空しさだけが語られているのではありません。土の塵にすぎないものが、何の幸いか神の手に取られたというのです。わたしたちを生かしてくださる方がおられるというのです。この私たちの全存在が神に生かされるのだということです。 しかし、ここに私たちのいのちの価値はあるのです。偶然に生まれたのでも、たまたま生まれたのでもない、神が、御心によって、塵にすぎないものをも御手に取ってくださり、形づくり、生かしてくださるのです。 人間の限界 人間は万能でも全能でもありません。御言葉は塵にすぎないと告げているのです。しかし、そのような、造られたものである人間の限界を知ることによって、私たちは絶望するのでも失望するのでもありません。造り主である神にすがるのです。 聖書は、人間は土の塵に過ぎないから価値が無いとは決して言わないのです。その人間が、神に生かされている。神からいのちを受け、神に帰っていく。だから尊いのだというのです。御言葉は、土の塵に過ぎない自分を知って、なお神の前に謙遜に生きるようにと、わたしたちを招いているのです。 聖書の語る死とは わたしたちのいのちは神から頂いたものであると聖書は語ります。わたしたちは神に生かされ、神のもとに帰っていく存在です。神に吹き入れられたいのちは、帰っていくべきところがあるわけです。 「千の風になって」という曲があります。大変なヒットをした曲だそうで、あちこちで流れています。だいたいこのような歌詞です。「わたしのお墓の前で泣かないでください。わたしは眠ってなんかいない、死んでなんかいない。千の風になって、あの大きな空を吹き渡っている。秋には光になり、冬にはダイヤのようなきらめく雪になって、朝は鳥、夜は星になって、あなたをみまもっている。」愛する人を失った者にとって、今も何処かであの人が生きていてくれるのかと、何か慰められる歌詞のように思われます。死んでなんかいない、体は死んだけれど、わたしは生きていると言われますと、何となくキリスト教の言っていることのようにも思いますが、聖書はどこを読んでもそのようなことは言っていません。今日の御言葉は、一七節「必ず死ぬ」と告げているのです。 聖書は、生きるとは、地の塵にすぎないものが神の手にとられ、そこに神の息吹が吹き入れられ、そして生かされる。そのことであり、死とは、肉体は塵にかえり、いのちの息は神に帰ることだというのです。私たちは、神のもとから出、神のもとへと帰っていくのです。生きるとは、神に生かされることであり、死とは、神のもとへ帰る。そのことであるわけです。死は、わたしたちの霊や魂が鳥や、雪に姿を変えることではありません。肉体は塵に帰り、いのちの息は神へと帰るのです。 私たちは、どんな形でもいい、鳥でも雪でも、風でもいい、なんでもいいから、そういうものになってでも、いのちが存続しているということに、慰めを得ようとします。しかし、私たちの本当の慰めは、そのような所にあるのでしょうか? 私たちは、帰るべき方のもとに帰る。塵を手に取り、命の息を吹き入れてくださった方のもとに帰る。帰るべき所があるのです。私たちを受け止めてくださる神がおられるのです。そのいのちの源である神の御手に憩うことなくして、どこに私たちは憩うことができるでしょうか?どこに希望があるのでしょうか? 鳥になって寒い大空で危険に脅えながら食物を必死で探す、雪になって、風になって、それでもこの地上にありつづける。もし、私たちのいのちがそのようなものだとしたら、どこに私たちの慰めがあるのでしょうか?私たちは神の御心によって創造され、神にいのちの息吹を吹き入れられて生かされたのです。わたしたちの過去においては、神に造られ、今は神と共に生き、将来は神の御許に帰っていく。そういう確かな希望がわたしたちの生涯をしっかりと貫いているのです。 キリストの息吹〜聖霊を受けよ〜 ヨハネ福音書20章を見ますと、十字架に死なれ、復活された主イエスが、弟子達に息を吹きかけて、「聖霊を受けよ」と仰せになります。ここでは明らかに今日の創世記の箇所が意識されています。 キリストが私たちに吹きかけてくださる息吹。それは、まさに私たちを根底から生かす息吹です。神のいのちの息とは単なる霊ではありません。私たちの全存在を生かすものです。キリストの息吹とは、絶望と混沌の闇を吹き払う力をもった神の息吹なのです。塵に過ぎない私たちを、神は手に取り、生かそうとしてくださった。復活のキリストは、自らの罪のためにいのちを失い、まるで地の塵のようにむなしくされた私たちを手に取り、み腕に抱いてくださり、いのちの息を吹きかけておられるのです。「聖霊を受けよ。」 神は、私たちの人生を肯定し、良いものとして私たちを造られたのです。神は、私たちのいのちを喜んでくださるのです。しかし、時として人間は神を忘れるのです。自分の力で何でもできると思い違いをしてしまうのです。けれども、私たちは神から出、神と共に生き、神のみもとへと帰っていく、そういう神によってこそ支えられ、生かされている存在であるのだと御言葉は語りかけているのです。 この神のうちにこそ、私たちの生きる望みが与えられ、本当の慰めを見つけることができるのです。 |
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