| 2003年8月3日 第39回全体修養会主日礼拝 「福音の真髄―徹頭徹尾 信仰」 ガラテヤの信徒への手紙 2章19節〜3章5節 |
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皆様、おはようございます。梅雨が明けまして、とびっきり暑い日曜日、8月の第1の聖日、よく教会にお越し下さいました。また、私のような者をお招き下さいまして心から感謝しております…。 今年、ウェスレー生誕300年の年に、長山先生から「ウェスレーの信仰の真髄の一つである『キリスト者の完全』について話して下さい」と頼まれました。私は今日、3つの講義の第1回目を始めます。全部「ガラテヤ人の手紙」から話を致します。 ■神に対して生きる(聖化) 「ガラテヤの信徒への手紙」をこよなく愛した人物として、マルチン・ルターが有名です。実は、ウェスレーもガラテヤ書をこよなく愛しました。そして「聖化」「きよめ」「キリスト者の完全」という原則を、このガラテヤ書に置いたと言っても過言ではありません。そして、その真髄を見るならば、2章19〜20節に凝縮されます。 19節をご覧下さい。こう始まります「わたしは神に対して生きるために」、これです。「神に対して」「神の御前に生きるために」。これが、きよめられた、聖なる生涯の冒頭にくると言ってもよいでしょう。 きよく生きるために、神の御前に恥なく生きるために、3つのことをウェスレーは挙げています。 さて、今朝は、出発点であります「神に対して生きる」とは「律法に対して死ぬ」こと。パウロは何を言おうとしているのでしょうか。それを理解するために、三章一節の有名な言葉から始めるのがよいと思います。こう始まります。「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち…」。 ■何がそんなに愚かなのでしょうか? しょっちゅう言われていますね。私、子供から「お父さんはどうしてそんなに物分かりが悪いの?」と。単刀直入に「ああ、愚かなるガラテヤ人よ」と。どこがそんなに愚かなのか。3章3節に具体的に書いてあります。「あなたがたは、それほど物分かりが悪く、霊によって始めたのに、肉によって仕上げようとする」。御霊によって始めたことを、肉によって仕上げようとする。これが、愚か・物分かりが悪い。神に対して生きようとする時、この愚かさが一番の問題になるのだということを、簡単にお話したいと思います。 福音とはいったい何でしょうか。福音とは「私たちが義とされ救われるのは、イエス・キリストの十字架を信ずる信仰のみによる」。これ以外の行いによるのではありません。 ところが、パウロが当時戦っていたユダヤ主義者と呼ばれるクリスチャンは、別な言い方をします。簡単に申し上げますと、こういうことです。私たちは十字架によって救われます。しかし、その人が正式に神の家族に加わるためには、ユダヤ人と同じ割礼を受けなければならない。律法を守らなければ、正式には神の子供とされない。つまり、十字架への信仰は入り口であって、正式には、きよく正しい生活、律法を守る生活があなたを救う…こういう論理です。パウロはそれを「御霊によって始めたことを、肉によって仕上げる」物分かりの悪さ、愚かさなのだ、と批判をしています。 私たちは皆、十字架から始まります。ところが、救いは「行う」ことによってではなく、「信仰をもって聞く」ことによって与えられる、と言われますと、私たち皆の心の中に、単純な疑問が、反発が聞こえてきます。「聞く」だけでは不十分なのではないだろうか、と。 主は、山上の説教の最後で「だから、わたしのこれらの言葉を聞いてそれを行う者は皆、岩の上に家を建てることになる」と、おっしゃいました。ヤコブの手紙には「あなたがたは、御言葉を実行する人になりなさい」。当然そうなのですね。信仰をもって聞いている時に、その確信が行動になって当然なのです。しかしその聖書的な発想が、いつしか律法主義的なメンタリティーに姿を変えていきます。これが愚かなのです。 つまり、十字架によって救われたのですけれども、いつの間にか、自分の出来映えを気にする。人の評価を気にする。できている自分に慢心する。足らない他人を見て批判する。逆に足りない自分を見つめて「あぁ自分は何年経っても駄目な信仰者だ」と自分を責める。私たちは、救われた時にいったん律法の行いを脇へどけました。その時私たちは、自分の誇りもプライドも、行いも、全部放棄して、イエス・キリストの十字架にすがりました。ところが、放棄したはずの「行い主義」が、しばらくすると裏口から入って来るのです。真面目なクリスチャンほど、そうなのです。 皆様、カッコウという鳥をご存じだと思います。カッコウはとんでもない鳥で、よその鳥の巣に入り込み、親鳥がいない隙にその卵を蹴落とし、そこに自分の卵を産み付けます。親鳥が帰って来て、それがカッコウの卵とは知らずに、一生懸命温めて、そして孵ってしまう。親鳥はビックリですよね。自分と全然違う雛鳥、それを自覚しているか分かりませんけれども。カッコウの雛は割と早く孵ります。そしてその時残っている他の卵は全部蹴落としてしまいます。 ドイツの神学者ヘルムート・ティリケーという人は、こんなことを言いました。「悪魔は、敬虔という巣の中に、自分のカッコウの卵を置く」。悪魔は、敬虔という、信心深い人の信仰生活の巣の中に、自分のカッコウの卵を産み付ける。敬虔なクリスチャンほど、よその卵とは知らずに、自分の出来映えを気にし、自分の足りなさを悲観し、他人のできなさを批判するという、サタンが産み付けた卵を、そうとは知らずに、それを育てて孵していくと。それが福音とは異質なものであるとは知らずに、孵していく。そういう「愚か」な傾向があると言うのです。 この傾向の背後には、非常に厳しい現実があります。私たちの住んでいるこの世界は、基本的に「行い主義」で成り立っています。この世界そのものが律法主義なのです。例えば、小学校の通知票は「よくできました」「できました」「ぜんぜんダメ」…ではないですよね。「よくできました」「できました」「がんばろう」です。「ぜんぜんダメ」とは書いてないけれども、算数も体育も音楽も美術も、そして性格にいたっては先生の個人的なコメントもついて、評価というのは、幼稚園の頃から小学校の頃から、私たちの頭脳の、魂の真髄に、評価主義というものが刷り込まれていきます。 私の好きな絵で「出番のない試合」というリトグラフがあります(松屋でも三越でも見られます)。「出番のない試合」は、清々しく抜けた入道雲の空の下で、野球が行われている絵です。少年達がベンチに、そしてある子は草をむしっている、ある子は友達としゃべっている。彼らのユニフォームは真っ白です。お母さんは息子のためにユニフォームを綺麗に洗濯し、朝からお弁当を作って「さぁ試合よ、頑張って行ってらっしゃい!」と言うのだけれど、彼らは一度も試合に出ません。しかし実におおらかに、子供なりに、夏の青空を楽しんでいます。出番がない。私たちのこの世界は、誰かが選ばれる時に、誰かが選ばれないということが必ずついてきます。嫌な世界だなと言いながら、それが現実です。そういう中で一貫して響いてくるこの世の声があるとすると、「お前は大したことはないぞ。大した奴だと認めてもらいたければ、それを自分で証明してみろ」。どこにいても、私たちがひしと感じる声ですね。この評価を気にする世界から、私たちは離れられない。クリスチャンになっても、その厳しい現実を私たちは日々背負って世の中で生きていく。 私は10年程前にインドの神学校に教えに行き、病気になって入院したという話は前の修養会でも話したと思いますが、フランシスコ・ザビエルのミイラがインドのゴアという場所に安置されています。それを見に行きました。神学校が始まる前、入学式の前、ゴアを見学するために一週間早く行きました。ゴアに行き、帰りの空港でお腹が下りまして……私はそのまま入院致しました。どんどん自分の力が抜けていく。インドの暑い病室で一人、天井扇がぐるぐる回っています。それを見ているだけ。点滴につながれて、終日見ているだけ。看護婦さんが点滴を変えに来た時に、「ねぇ、僕、治るんだろうか? 僕、治らないと思う」「どうして?」「だって朝食、カレーだったもん」(笑)。お腹を下して入院している人にカレーを出す病院で、治ると思えないですよ。私は看護婦さんの手を握りながら「何とかしてくれ」と。この思いの背後にあるのは、私は高津教会からたくさんの餞別をいただいた(笑)。入学式も出ていないのです。証拠写真がありません。インドで宣教師の活動をしたという証拠がないままで、東京には帰れない。このまま授業を一回もせずにインドの病院で息絶えたら、それは家族には残念ですよ。しかしそういう問題以上に「自分の宣教師としての評価はいったいどうなるのだろうか」と、思わず考えますよ。 今年の春10年ぶりに、インドの神学校の卒業式に呼ばれて行きました。卒業式で、インドは非常に格式がありますから、スピーチする私の後ろに、お偉いさん達がずらーっと並んでいるのです。ひしと感じます。「この若造に説教ができるんだろうか」と。その視線をひしひしと感じますよ。説教が終わってようやく、皆さん丁寧に挨拶をして下さる。説教が駄目だったら挨拶してくれないのでは、と思うくらい…今日皆さん挨拶して下さいますよね(笑)。後ろのお偉いさん達はそんなこと考えていないと思うのです。しかし、私はそれを意識した。それほど私の魂に「人の評価」「自分の出来映え」というものが、刷り込まれています。 オックスフォードにいた頃のジョン・ウェスレーは、神の評価を得ようと躍起になっていました。彼は聖書を原語で学び、聖餐式に週に数回与り、牢獄や病院を訪問し、貧しい子供達を集めて学校を造り、アメリカまで行って2年の歳月をかけて宣教活動をしました。それもこれも全部、神様に「よくできたね。これでお前も聖徒の仲間入りだ」と、その一言を神様から言っていただくために、彼は必死だったのですね。しかしどんなに必死に頑張っても、アメリカで2年間、あの原住民の生活をしても、未だに神様は「よくやったね」の一言をかけて下さらない。そして彼はあのアルダスゲートで、1738年5月24日、福音の真髄、福音の福音たるゆえんに、とうとう到着しました。 福音が福音であるゆえんは、どんなに「よくできました」が並んでも、あなたはそれで救われるのではない。逆に、どんなに「がんばろう」が並んでも、それで私たちが神の国から遠いのではない。救いは、ただイエス・キリストの十字架を信ずる信仰によるのです。 ■評価や出来映えに支配されているこの心を解き放っていただくために、一つのことが大切なのです さて、この実力主義・成功主義に染まった世界を生きる私たちが、評価や出来映えをいつも気にしている私たちが、その支配から解き放たれるために、一つのことが大切です。それが3章1節です。「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」これ以外にありません。自分の目の前に、十字架につけられたイエス・キリストがはっきりと示される。そのイエス・キリストを真っ直ぐに仰ぐ以外に、評価主義・出来映え主義の世界から抜け出せる方法は他にないのです。 アリスター・マグラスという(今年日本に来ましたね)英国の神学者は、こういう例えを使っています。ある女性が海外でNGOの働きについていた。誘拐され、何千万という身代金を要求された。NGOボランティアの人々は、たとえそういう事態にあっても責任を負わなくてもよいというサインをして、海外に出掛けていきます。彼女は最初の頃「何とか集まるんじゃないか」と思っていました。しかし山奥で閉じこめられながら時が経過すればするほど、自分の友人や親戚には集められない額だということが分かってくる。彼女は絶望します。しかし英国の友人達は手を尽くして彼女のためにお金を集め、身代金を払い、やがて彼女は解放されます。彼女が自分を見た目によると「私なんかのために、それ程の額を寄付してくれる人は一人もいないだろう。いや、数人いたとしても、到底集まらないだろう」それが彼女の自己評価でした。しかし友人の目にはそうではなかった。彼女が自分の価値に初めて気付くのは、身代金が支払われ、自分が解放され、友達に出会った時、「あなたはこの世に一人しかいない。私たちにとってかけがえのない存在ではないですか」と言われて初めて、「あぁ、自分はそんなに価値があるのか」と分かるのですね。 十字架を仰ぎ、聖餐に与る時に、私たちは初めて自分の価値が分かると言っても過言ではありません。私を大切に思うがあまりに御自身の命を十字架の上でなげうたれたイエス・キリストに出会う時に、初めて私たちには自分の価値が分かるのです。 ■信仰が現れたからには… 最後に3章26〜27節を御一緒に読んで、締めくくりたいと思います。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」。私が「できる」とか、私が「できない」とか、そういう世界に私たちは住んでいるのではないのです。26節「キリストに結ばれているが故に神の子です」。27節「この身にキリストを着ているのです」。しかも26節と27節に2回「あなたがたは皆」という言葉が出てきます。「あなたがたは皆」には、銀座教会の家族全員が入っています。自分はまだまだ駄目だとか、自分は無理だとか、そういうふうにいじけるなと言わんばかりに、パウロは2回続けて「あなたがたは皆、あなたがたは皆」。洗礼を受けて間もない者も、なかなか信仰的に成長できない者も、教会にたまにしか来ることができない者も「あなたがたは皆」イエス・キリストを着て神の家族です。 メソジスト教会の監督で、後に日本基督教団の総会議長をなさった鈴木正久先生が、非常に巧みな例えを使っていらっしゃるので、それを引用したいと思います。 ――私たちのうち誰であれ、このキリスト・イエスにある信仰によって神の子とされていない者はないのです。誰であれ、飛行機に乗れば体重の差なんか問題ではないのです。同様に、私は罪のしがらみの重荷が入り組んでいるから、とても神の子として祝福された生活は出来まいと考える必要はないのです。キリストは力強い神の恵みの飛行機です。この私を神の御国へ、神の祝福のもとへと運んでゆく力を持っています。信仰とは、この飛行機に乗り込むことです。私の体重は軽い、私の体重は重いと言って、とにかく「私」「私」とここで言っているのは滑稽です。だいたい、体重が軽いからとて空を飛ぶことは自分の力ではできないのです。神の子として生きるという輝かしい生活は、空を飛ぶのに等しい奇跡です。はじめから「私」に「できる」「できない」を超えた問題なのです。それはただキリスト・イエスにあることによるのであり、信仰から出発することだけによるのです。 あぁ、本当にそうだなぁと思います。「私は大丈夫」「私は駄目だ」「私は弱い」「私は強い」、そんなことではありません。最も大切なことは、信仰のしるしとしてバプテスマを受け、神の子供とされ、キリストを我が身に着ること。行動主義・成功主義・実力主義のこの世界にあって、毎月聖餐の卓にはべる時に、私たちは律法に対して死ぬ。そして「徹頭徹尾、信仰」によることを覚える。「私たちは皆」、神の子供です。 溝の口駅前に丸井のデパートが出来ました。一階にフードコートがありまして、小さなお店が並び、中央部分で買ってきた物を食べるような仕組みになっています。先日コーヒーを飲んでいましたら、2歳くらいの男の子がバギーに乗せられ、お母さんがアイスクリームを買っている。お母さんがバギーの前にしゃがんで食べさせようとしたら、男の子の口の中に紙くずがいっぱい入っています。待っている間にバギーのどこかから紙くずをみんな口の中に入れちゃったのですね。お母さんは一生懸命男の子の前で「さぁ、ペッ。ペッしなさい」。ところがなかなか「ペッ」しないのですね。アイスクリームをどんなに差し出されても。男の子は、紙くずがいっぱい入ったままアイスクリームを食べようとしているのです。そういう時にお母さんは、男の子の頭をパシッと叩いて「だからお母さんはアンタを嫌いなのよ」…とは、言いませんね。どんなに手が掛かっても、どんな物がその子の口の中に入っていたとしても、愛する子供ですよね。そしてお母さんは、子供の口の中に紙くずがいっぱい入ったまま「ほら、アイスクリームよ」と言って子供の口の中にねじ込むでしょうか。ねじ込まないですよね。忍耐深く、子供が紙くずを吐き出すのを待っています。手を突っ込んで紙くずを出すかもしれませんけれども、しかしともかくそれを出してから、アイスクリームを入れようとします。 皆様、聖餐式とはそういうことです。私たちの口の中にたくさんの紙くずが入っているからといって、「もう、お前のことは子供とは呼ばない」とは、イエス様はおっしゃいません。「あなたがたは皆、神の子供です」とは、そういう意味です。だからといって祝福を、私たちの口の中いっぱいに紙くずを入れたまま、押し込むような神ではありません。御前に跪いた時に、どんな小さな紙くずでも、気が付いた物を、私たちは主の御前に告白して、そしてそれを出す。それから、主の恵みを受け取ろうではありませんか。
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