| 2000年8月6日 礼拝説教 信仰継承の使命 聖書 テモテへの手紙二 1章3〜8節 |
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私が現在の鵜飼名誉牧師のもとで過ごして、送り出されて30年が経ちました。また長山牧師とは不思議に鳥居坂教会、今度は銀座教会でこうして親しくお交わりいただきき、ご指導いただけることを本当に嬉しく思っております。 ところで、近年、日本で大きな事件が相次いで起こっております。例えば阪神淡路の大震災、オウム真理教テロ事件、神戸で起こった少年の連続凶悪殺人事件があります。その後、中学生のナイフによる先生の殺人、友人の父親の殺害、友達を殺すと言う悲しい事件が続きました。さらに和歌山の保険金をめぐるカレー毒薬混入殺人事件、新潟のアジカナトリュウムお茶混入事件、中学校の同級生にやせ薬と称してクレゾール液を送りつけ、それを飲んだものが入院するという事件が相次いで起こり、日本の社会全体に言い様のない不安を与えました。これらは相互に何の関係も無い事件ですが、何れも私どもに大きなショックを与え、人間存在を根底から問い直させるものでした。 阪神淡路大震災は自然が引き起こした災害ですが、私たち人間が如何に弱く、小さく、脆く、儚い存在であるかを思い知らされました。 オウム真理教の事件は人間によって引き起こされた恐ろしい無差別殺人で、多くの方々が、今も苦しんでおられますが、私たちにマインドコントロールの恐ろしさを教えてくれました。大学・大学院において高等教育を受けた人々のマインドの脆さを教えてくれました。また、このことが人々の宗教に関する信頼の思いを根底から揺るがせました。いまでは、特に若い人々の中でカルト集団の勧誘とキリスト教の伝道の区別がつかず、宗教と聞くと、それだけで逃げ腰になる者が多いとも聞いています。 一連の少年事件の深刻さは非道で凶悪な犯人が中学生であったり、17歳の高校生であったことから、私たちがこれまで単純に信じてきた、常識的な人間理解、中学生像を根底から問われるものでした。愛知の17歳の優秀な高校生が主婦を殺しましたが、その動機は人を殺す経験をしたかった、人が死ぬとき物理的にどのように変化するかを知りたかった、といっています。 広島のバス乗っ取りの高校生が多くの人々を人質に取り一人の婦人を殺害しました。さらに友人を5時間苛め苛めてなぶり殺した3人の16歳の少年少女たちの暴行事件というのは胸が痛みました。 4人の野球部の仲間をバットで怪我をさせ、また、母親を殺した高校生等、昔は恐らく5年または10年に一度起こったような大事件が毎日どこかで起こっています。勿論、人間の弱さ、異常さ、残酷さ、悲惨さというものはこれまでの過去の歴史の中で何度も繰り返されてきました。 しかし、今日これらの事件を私たちは人間存在を深く問うものとして真剣にお互い考えなければならないと思います。それらは人間が生まれながらに持っている罪への性質と言うものをいやが上にも考えさせるからであります。私たちは全ての人間を創造されました、生ける真の神を見失い、離れますと、自己中心の利己的な罪、咎、過ち、過失、悪の数々を平気で犯すことになるのです。「法の華」に見られるように人間の弱さと欲に付け込んで、足裏診断と称して、890億円の金を瞬く間に得たというのを聞くと私たちが正しい宗教を教えられていない弱点を考えさせられます。もし、私たちが安易な超能力信仰や自我中心の楽観的な人間観からはなれて聖書のお言葉に正しく聞きます時、そこに本当の救いと真実な道が与えられるのであります。 私たちはこのことを確信しているでしょうか? 聖書には、「誰でもキリストにあるならばその人は新しく創られた人です。古いものは過ぎ去った。みよ全てが新しくなりました」と約束されています。私たちは今朝、この礼拝において、その聖書のお言葉に聞きながら、自分自身を正され、強められ、新たに創りかえられるものでありたいと願うものであります。 ところで私たち日本のクリスチャンはこの信仰の継承について、どちらかと言うと消極的で不熱心であったように自己反省を含めて思います。それは一つには親が、自分の子供といえども、親の信仰を押し付けるのは間違いであると言う考えをどこかにもっていたためではないでしょうかと思います。また、親が自分の信仰生活や教会生活を実際の家庭生活と一致していない、矛盾がある、という事情があって、また、子供には丸見えである一種の信仰の未熟さのあったことにも依るように思います。 事実、単なる信仰の押し付けや強制が子供の信仰教育においてまかり通るとすれば、それは子供の反発をこそうめ、決して良い信仰の実を結ぶことが出来ないと思います。しかし、自分が主イエス様から賜った恵みを、自分の愛する家族や、子供たちと共に分ち合うという姿勢において、私たちはもっと真面目に真剣に祈りつつ、大胆に求めなければならないと思います。また、教会としても日曜日礼拝に集う多くの方々、また、そこには子供たちも含まれているわけですが、その一人一人のためにもっと祈り、一人一人に深い関心を向けることが必要ではないでしょうか。 今朝私たちはテモテへの手紙第二の1章の3節から8節を主の御言葉として聞きました。もう一度その個所を読んで見たいと思います。「わたしは、昼も夜も祈りの中で耐えずあなたを思い起こし、先祖に倣い清い良心をもって仕えている神に感謝しています。わたしは、あなたの涙を忘れることができず、ぜひあなたに会って、喜びで満たされたいと願っています。……その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたに宿っていると、わたしは確信しています。」とあります。この時使徒パウロは暗い獄中にありましたが、愛する自分の子供を慈しむかのように、弟子のテモテの信仰についてここで語っています。ここに初代教会の中で三代にわたる信仰の継承者としてのテモテの姿がはっきりと示されています。テモテの信仰は先ず祖母ロイスそして母エウニケに宿ったもので、その後継者がテモテでありました。 この歴史のある銀座教会にも、この様な信仰の二代目、三代目あるいは四代目のクリスチャンホームの方が多くおられるのではないかと思います。 このことは実は教会にとって大きな財産であり、大きな恵みであり、素晴らしい証しの力だと思います。私たちが信仰を持つこと、つまり信仰を継承するということは、父なる神様の恵みによる導き無しには決してあり得ないことであります。このことは聖霊の働きを抜きにしては絶対に起こり得ないということであります。コリントへの信徒の第一の手紙12章3節に次のように記されています。 「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」とあるとおりです。このイエスキリストへの信仰が、一人の人間の中に起こるだけでなく、それが二代目、三代目そして四代目と受け継がれて行くことは、真に感謝すべき神様の恵みの働きというべき出来事であります。その信仰の継承に当たり、両親を始めとして祖母、祖父、兄弟、姉妹あるいは教会の多くの方々の目に見えないところでの祈りと奉仕があり、導きがあるのです。それらを父なる神様がお用いくださいまして、彼らを通じて主が働いてくださるのであります。従って信仰の継承とは始めから終わりまで全て父なる神様の恵みの業であり、聖霊の働きによるのです。私たちはこの信仰の継承の事実を主の恵みの事実として、喜び感謝するだけでなく、信仰の継承の責任というものを深く自覚し自分の家族に、子供に、あるいは職場の同僚に伝えたいと思います。この点について使途パウロは3節で、「わたしは、昼も夜も祈りの中で絶えずあなたを思い起こし、…」と言って、彼は信仰の継承について先ず、何よりも、何をするよりも祈りの大切なことを強調していました。信仰が継承され家族や子供や孫にあるいは人々に信仰が伝えられ育って行くためには、なにはさておいても、父なる神様に祈ることだと教えています。祈って、そして聖霊の働きによって信仰を育てることであります。全ては父なる神様に祈ることから始まるのであります。こんな人は絶対駄目、この人はとても無理だ、そうではありません。先ず祈ることから始めるのです。その時に父なる神様はその人にとって、最も良い時に、最も相応しい方法で、出会ってくださり、信仰へと導いてくださいます。 皆さん、キリスト教教育と一般教育、その大きな違いは正にここにあります。 一般教育はその子供の中にある良い物を引出し、人の力によってそれを養い育てる事であります。しかし、キリスト教教育はその子供を主の恵みの力を信じて、その子を差し出し、恵みの働きに信頼して育てる事であります。私たちはお互いに日夜、神様に祈って、聖霊の働きに自分を委ねて、子供たちを育てているかどうか、あるいは職場の友人に信仰を継承していただくように努力しているかどうか、深く反省させられます。 アウグスティヌスの母モニカは生ける神様を見失って、狂乱の生活をしていた息子のために、涙の子は亡びないと毎日文字通り熱心に彼の名前を挙げてその導きを祈りました。そして息子はセント・アウグスティヌスに新しく生まれ変わったのであります。 このように信仰の継承は先ず祈ることが大事であります。 次に5節「あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。」と語っています。どうして彼はただ信仰と言わなかったのか?なぜ彼はわざわざ純真な信仰と言ったのでしょうか?ここを英語の聖書で見ますと「Sincere Faith」とか「Faith of Sincerity」となっています。これは皆様良くお解りのように「真摯な」「忠実な」「純真な」「誠実な」信仰と言う意味であります。 使徒パウロは弟子のテモテの信仰をそのようなものとして高く評価しております。このときパウロは既に相当の老齢に達していたので、彼の信仰生活は正に円熟期にさし掛かっていた筈であります。そうであるのに使徒パウロは弟子の青年テモテの信仰を恰も羨ましがっているかのように、高く評価しております。この使徒パウロの弟子テモテに対する高い評価を生んだ最も大きな理由に、パウロが一代目のクリスチャンであるのに対して、テモテが三代目のクリスチャンであるということがあります。使徒パウロは使徒言行録の9章1節以下で、自分はかつてクリスチャンを迫害するためにダマスコに行く途中で復活のキリストに出会って、主に捕らえられ、劇的な回心を経験してキリスト者になったということをはっきり述べています。これまでキリスト者を迫害してきた彼が今や立場が逆転してキリストの僕となり、伝道者となってその信仰の歩みを続けていました。彼はいわば一代目のクリスチャンでありました。 他方、弟子のテモテは祖母ロイス、母エウニケを経て祈りの中に御言葉によって育てられた三代目のクリスチャンでした。このことは人間が努力しただ一生懸命に考えてもどうにもならないことであります。それは先に述べたように全く神様の恩寵であり、神様の恵みによる選びに属すすることであります。そうであればこそ信仰の継承に当たり、私たちは先ず主に祈って神の恵みの力にたより、家族を、子供たちを信仰に導き、また育てることが可能となります。 ところで私たちは教会生活でお互いこういうようなことを耳にいたします。一代目のクリスチャンから、二代目、三代目、四代目のクリスチャンは一代目のクリスチャンには無い、そういう信仰のゆとり、豊さ、気張らない信仰生活、自然体で自由な生活をしているのがとても羨ましく思うという感想が聞かれます。この反対に二代目、三代目のクリスチャンから見ると、一代目のクリスチャンは自分で一つ一つ確かめながら、悩みながら、神様と出会い、信仰を与えられているので、自分の信仰を自分の言葉で現すことのできる強さがあるというのです。 何れにいたしましても、テモテには自分の家庭環境の中で彼の信仰を育ててくれる者がいたということです。それは彼にとって何れにもまして素晴らしい神の恵みであり、大きな賜物でありました。 ところで内村鑑三先生はその著書「後世への最大遺物」の中で次のように語っておられます。「後世への最大遺物とは何であるか。それは勇ましく高尚な生涯であると思います。それはこの世の中は、神様が支配する世の中であることを信じることであります。こういう考えを我々の生涯に実行して、その生涯を世の中の遺物として、この世を去る事です」と述べております。内村先生によれば力のある人は思想を残すことも良い、事業を残すのもいい、財産を沢山残すのもいい、素晴らしい文学を残すのもいいけれども、最も大切なものは信仰による生涯を、神様の恵みとして受け止めることで、勇ましく高尚な生涯を送ることだと勧めています。 ここにはテモテの母エウニケのことについて書かれていますが、父親のことはただの一言も紹介されていません。一体これはどうしてなのでしょうか? 使徒言行録の16章の1節から3節を見てみましょう。テモテの母親はユダヤ人で父親がギリシャ人であったということです。今日の言いかたをすれば彼の両親は国際結婚をしていたという事であります。彼の父親は信仰の無い者つまり非クリスチャンでありました。キリスト教信仰を持つ者の立場から、その理想を言えば自分の両親が揃ってクリスチャンであること、同じ信仰を持っていること、それが望ましいことは言うまでもありません。しかし、現実には仲々そのように都合のよくは行かないのであります。ある場合には父親がプロテスタント教会の信者であり、母親がカトリック教会の信者であることもあります。また、全く逆のケースもあります。 ここで使徒パウロが信仰の父として弟子のテモテに言いたかったことは、一体なんであったのでしょう? すなわち、彼がこの手紙を書いた一番の理由は何であったかと言うと、それは8節に示されています。彼はテモテの信仰を称賛しながら、自らキリストの僕として仕えて、その結果が囚人であることを恥じない、そのパウロの信仰をテモテが継承してくれること、またキリストの福音を前進させてくれることを望むのであります。さらにテモテが益々神に愛される者として混じり気の無い純粋な信仰生活を全うするということであります。そのうえで彼は9節で「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださる」ので信仰の継承のためには、まずなにはさておいても、さきほどらい繰り返してまいりました様に、人々の救いのために心から神に祈りなさいということでした。父なる神様の業である伝道にパウロと若き弟子のテモテは神の道具として参加する使命があるという、その責任を覚えて欲しいということでした。 顧みて今日、わたしたちは信仰の継承のために具体的に何をしたら良いのでしょうか? まず第一にわたしたちは愛する家族や、特にその子供たちや友人のために信仰の継承の「場と時」を一度でも多く作る事です。子供や孫の幼少時代に神様と交わった経験。つまり教会の礼拝の経験というものを一度でも多く持たせるということは意識的にも無意識的にもその人の魂の基礎経験となって、何時かは必ずその人の生涯を決定するものとなるからです。そのためにも家族や子供たちにも出来るだけ礼拝の経験を持たせる。また、教会の人々を紹介し、教会の交わりに触れさせて、豊な礼拝の経験と、聖書の言葉に触れる機会を一度でも多く持たせる必要があります。 教会で礼拝を受けることを決心した方がよく仰ることですが、「自分の母が生前クリスチャンでした」とか「自分の学んだ学校がキリスト教主義の学校でした」とか「在学中は決して真面目に学校礼拝に参加しないで、聖書の授業を真剣に受けていませんでした」「職場の友が誘ってくれました」しかし、「今となってみると全てが神の見えざる導きであったと思います」と言われることがあります。 例えばAさんと言う方は、某大学を卒業しましたが、在学中はB教授を大変、尊敬していました。卒業する時にこの先生がクリスチャンであるということをはっきり先生の口から聞かされて、卒業記念として聖書いただ、、いて、人生何時か是非、教会に行ってくれる事を祈っていますと言われました。その彼女が結婚してやがて三人の子供を与えられました。ところがある日、小火を出して、近所付き合いや家族との間で大きなストレスを持つようになりました。その時に近所の友達が『教会にご一緒しませんか』と誘いました。その時にB先生の言葉が初めて活きました。そして彼女は三人の子供たちと共に教会の礼拝に参加するようになり、二年半後に洗礼を受けました。そして今も熱心に教会生活を続けられています。 この場合、彼女を救いに導いたのは現象的に言えば確かにB先生と近所の方ですけれども、この人間的な手続きを通し、主なる神様御自身が働かれたということであります。 あるいはこの様な相談に来られる方がおります。「自分の子供は幼稚園や小学校時代には親の言うことを聞いて日曜日になると、家族一緒に教会に行って、教会学校へも喜んで参加していた。しかし、中学校に入った頃から学校行事の関係から教会へ行かなくなって、やがて神様のことなど信じられないと平気で口にするようになりました」という悩みであります。また,「最近ではもう教会に来てはいないんですけれども、どうしたらいいでしょうか?」と悩みを訴えられる、そう言う方もいらっしゃいます。そして遂には「結局、教会学校や教会の様々の教え、あるいはキリスト教教育は無駄であったのではないでしょうか?親として色々苦労してきたけれども徒労であったのではないでしょうか?」半ば自嘲気味に仰る方もいらっしゃいます。 それは、余りにも結論を急ぎすぎていると思います。教育とは子供の成長の過程で評価することは不可能であり、むしろ危険であります。特に信仰は神様の業に属する事柄でありますので、その子供のキリストと出会う神の時があるのです。 いずれにしても子供は家族が教会に行ったという経験は、また、教会の方と交わったというその経験は何時か必ず実を結ぶことになると教会の歴史は語っています。現実に皆さん様々の方のことを思い起こしてください。このことを考えてまいりますと日本では明治以降においてキリスト教主義の学校とか、教会学校の果たしてきた役割は確かに大切であったともいます。現在キリスト教主義の学校は100学校法人あり、これはプロテスタントだけですが、毎年35万人が卒業しております。日本の宣教において大変な役割と使命を果たしてきたと思います。今後も日本の宣教において、教会とキリスト教主義の学校がさらに強い協力関係を具体的に作り出して行くことが大事だと思います。学校は教会の働きを大切に思い、信頼し、また、教会は積極的に学校を覚えてくださり、さらに教会は母なる教会としてキリスト教学校に働くことに使命を持つ良いクリスチャンの教員職員を一人でも多く育てて、祈りをもって送り出していただきたいと、願います。 特にわたしたちは自分の子供だけではなく、教会に導かれた全ての人たち、特に愛する家族や若い人々の魂について教会の、皆が温かく見守り、関心を持ち、学びあって育てる責任を再認識することが必要であります。そこに必ず変化が起きてくると思います。さらに、教会学校の教育は一部の先生にお任せするのではなく、教会の大事な業としてみんなでお支えしていきたいものであります。 たとえば、子供はある年齢に達しますと、人生の悩みとか、信仰の問題とか、進学の事とか、恋愛の悩みを両親やあるいは家族のものよりも友人や信頼できる人に相談するようになります。そこでこの銀座教会の中で信頼し尊敬でき、親しく家族どうし交わる人がいるということは大事な存在になります。幸いにもこの銀座教会には色々な人生経験をもち様々な賜物を持たれ、社会の各界で良い働きをされている方々が大勢おられます。従って子供たちが教会の交わりを通して様々な人と出会って豊な人間としての成長を遂げることが出来るのです。このことは子供にとって人間形成の恵みの大事な一つであります。この様な教会の恵まれた交わりの中にある子供は人間として、小さく固まらず、むしろ大きく成長する可能性を与えられていると思います。わたしたちは親として先の恵みに与ったものとして、この可能性が教会論的に正しく生かされるように祈って工夫しましょう。助け合って生き生きとしたそういうものを創り出して行くことが必要でありましょう。3節に「祖母ロイス、母エウニケに宿っていた信仰」という言葉が使われています。この場合宿っている言葉はギリシャ語のパーテイケイと言う言葉が用いられています。この言葉は委託物とか、委ねられたものを意味している言葉です。この言葉は銀行や他の人に預けたお金を意味しております。従って預けられたものは、預けた人がその委託物や預けた金の返還を要求してきたならば、それをそのままそっくり持ち主に返すのが当然の義務であります。このことはわたしたちのキリストへの信仰を考える場合にも、とても良く通じると思います。信仰はわたしたちの両親、兄弟姉妹、家族、友人、先輩から自分に委ねられたものです。従ってそれを今度は自分の家族やまた、友人や家族や子供や孫や全てのものに信仰のバトンタッチをする責任があります。わたしたちは主の恵みとして与えられたキリストの福音を、この信仰を次の世代に正しく手渡さねばなりません。何故ならキリストへの信仰は父なる神様からお預かりしたものでありまして、恵みとして、お預かりしたものであるからです。若し、わたしたちがこの使命責任を果たせないとすれば、その結果、ひどい損害を蒙るのは子供たちであり、次の世代の人々であります。彼らは主の恵みの委託物、また、キリストの福音の遺産を奪われることになって、その全ての恵みの権利を失うことになるからです。わたしたちはキリストの福音、主の恵みの喜びに感謝するだけでなくて、キリストの福音と主の恵みを委ねられたものとして、それを次の世代に正しく手渡して行く、その使命責任を今朝深く覚えたいと思います。 しかし、それと同時にわたしたちが信仰のバトンタッチをするうえで、信仰は親から子供え財産のように譲り渡して、引き継ぐような性質のものでないことも知っておくべきであります。信仰は神様の深いみ旨による選びであって、神様の恵みとして神様の与えられる賜物であるからです。従って両親が幾ら信仰を自分の子供に持たせたいと願っても、仲々そのようにならないのが現実であります。わたしたちはその事をしっかり心得ていなければなりません。しかし、それだからと言ってわたしたちは全く手を拱いていい筈がありません。却ってそれだからこそ、主に祈って神の業としての伝道に参加するものでありたいと思います。 信仰の継承は単なる信仰の直接的な連続ではないのです。そこには断絶もありますし、また、しばしば危険も孕んでいます。それが新しい決断によって乗り越えられて、主に祈りながら信仰の冒険が始まります時に、切れ目がまた不思議なかたちで繋がれる。信仰の継承という事が弁証法的に展開されて行くのではないかと思います。そうでないと今度は悪い意味でボーンクリスチャンを産んでただ教会に連なっているだけという、そういう信者、あるいは福音の空洞化をきたらす原因にもなります。わたしたちは自分の家族子供を含めて、すべての人々への信仰の継承−バトンタッチということを真剣に考えて何代にもわたって神の愛に満ち、キリストの香りを放つ正統的な信仰の伝統が正しく継承される銀座教会、また、そこに連なるそれぞれの信仰の家系を形成して行きたいものであります。 【お祈り】 天地万物何もかも創造され、その一人一人、一つ一つを掛替えの無い者として今もイエスキリストにあって、導き守り支えていてくださいます全能の父なる御神様、銀座教会の礼拝を共にする恵みを与えてくださったことを感謝いたします。御教会が益々キリストの福音に堅く立ち、神様の栄光を表しキリストの福音を一人でも多くの方々にバトンタッチをし、教会の徳を高め、そして、あなたの恵みを一人でも多くの方々と分つ生き生きとした教会としてここにさらに立ち続けて行くことが出来るように、あなたのうえよりの祝福を心からお祈りいたします。礼拝に与りましたお一人お一人、一つ一つの家庭の中にあなたが隅々まで恵みを、満たしてください。イエスキリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン。」 |
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