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石黒 悦雄(いしぐろ えつお)
堺教会 牧師
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教会創立日に記念すること
きょうは、教会創立記念日の礼拝です。この教会は1890年、明治23年に、ここ
銀座に日本美以教会の教会として創立したのであります。初代牧師として小方
仙之助先生が遣され、ここに会堂が建てられました。それから数えて本年で 111年になります。記念すべきは、ただ創立期のことだけでなく111年の間、
教会がこの地に立ち続け、福音を宣べ伝え、救われた民を牧し、教会を形成し、
信仰を証し続けてきたことです。特に銀座という土地、東京のひとつの顔とも
言われる土地柄で、キリスト教の顔とも言うべき会堂を建てて、初代から4代
にわたって建て続け、この地に来る多くの人々を招き入れ、福音を証し続けて
きたことを記念したいと思います。神のみ前で記念することは、忘恩のわたし
共にとって大切です。すべてはイエス・キリストにより救いのために与えられ
た神の恵みであるからです。さて、きょう「この言葉は真実であり、そのまま
受け入れるに値いします」といって与えられたみ言葉は、「わたしたちが労苦
し奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望
を置いているからです」というのです。このテモテへの手紙は使徒パウロから
テモテに宛てられた晩年の手紙とされていますが、学者たちは、その内容から
もっと後の2世紀の教会の事情をうかがわせる、と言います。このみ言葉の4章
1節には「背教の予告」という表題が付けられています。もしも、2世紀のこと
だとしますと、キリストの教会が創立して100年、1世紀を経てきた教会のこと
です。その教会の中に背教が起こってきて、信仰の堕落が始っているのです。
「惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心奪われ、信仰から脱落する者がいます」
といわれています。
「わたしたちは労苦し、奮闘する」
キリストの教会には、聖霊のご臨在と激しいほどの力強いお働きがありました
が、それに対抗し敵対する力によって、多くの患難と圧迫が加えられ、使徒も
信徒たちもそれに激しく抵抗し闘うことなしには、教会を立て伝道をすること
ができませんでした。わたしたちが労苦し、奮闘する、というみ言葉には、使
徒たちの多くの労と信徒たちの苦しみが込められています。しかし、それでも
その労苦により、奮闘によって、福音がいたるところに宣べ伝えられ、教会が
立てられ救われた者が増し加えられ、伝道が前進していきました。順調ではな
くても、確かにその働きを前進させ、発展させられて行ったのです。使徒言行
録ではそのように見ます。しかし、使徒パウロの晩年であれば、この頃に、 ローマ帝国の迫害が始り、迫害のために殉教する人たちが出るようになりまし
た。パウロ自身も囚われの身となり、殉教のことを思わないでおれなくなりま
した。そのような中で、教会を見ると、教会はさまざまの問題で弱さをさらけ
出しており、信仰の堕落や背教が起り、「偽りを語る者たちの偽善によって引
き起される」異端が予見されたのです。これは一体どういうことなのでしょう。
労苦し奮闘した者にとっては、自分たちの労苦や奮闘は何であったのか、とい
ううめきが聞こえるように思われます。今日、宣教1世紀を越えた日本の諸教会、
信徒のことを思うとき、状況は違いますが、これと共通するものを感じないで
おれません。しかし、それでも「わたしたちは労苦し、奮闘する」というのです。
これまでもしてきたが、この後も福音のために奮闘する、と言うのです。どうし
てできるのでしょうか。
生ける神に希望を置く
希望を置くことができるからである、と言います。先に述べたような、労苦し
奮闘している状況にもかかわらず希望がある、と言うのです。人間的な希望で
はありません。教会はたとい順境の時、明るい展望を持つことができる時で あっても、人間的な希望は希望ではありません。かえって「希望するすべもな
かったとき、なおも望みをいだいて信じた」というように、信仰の希望を持つ
ことができるのです。しかし、それは決して楽観的な希望ではありません。福
音は楽観主義ではないのです。それはその中心に十字架を掲げています。十字
架は罪と死を示していて、どんな意味でも希望のない絶望的なものです。とこ
ろが十字架は、人間の罪と死と共に、神の愛を示しています。罪深き死ぬべき
人間のために、人間と共にいまし、救われる神の愛を示しています。いつまで
も、どこまでも罪を犯してとどまることのない人間を、愛して救おうとされる
神です。生ける神は、十字架においてあらわされています。人間の救いのため
に命をあがないとされた神です。そして、死からよみがえられた神です。この
生ける神であるから、望みを置くことができるのです。人はみな死ぬものです。
人間の希望は死んで尽きるのです。死んでも尽きることのないのは、今もとこ
しえに生きておられる神に置く希望です。
信じる人々の救い主
この生ける神、救い主なる神は、「特に信じる人々の救い主である」と言われ
ています。信じる人々とは、キリストと父なる神を信じる者のこと、神は、そ
の者たちの神でいまし給います。神は信じている者だけでなく、信じていない
者にとっても神であると言われます。その通りです。しかし、それだからと 言って、神を信じていても信じていなくても同じである、ということではあり
ません。それどころか、天と地ほどもちがうのです。 神は真実な方です。真実な者には真実な方となられるのです。「特に」と
言っています。これは救いの恵みの特権を言っているのではありません。神を
信じる恵みのことを特別のこととして特にと言っているのです。無神論や汎神
論の時代にあってその罪に陥ってはならないのです。わたしたちは、そのよう
な中から、特別の恵みを受けて神を信じ、救い主を信じることが許されている
のです。
すべての人の救い主
先のことと矛盾するように思われるかもしれませんが、み言葉はこの救い主な
る生ける神は「すべての人の救い主であり、生ける神」だと言っています。 生ける神に望みを置くのは、神は信じる者だけでなく、信じない者にとっても
神でいまし、それを愛して救いをみ心にかけ、受け入れようとして下さるから
です。主イエス・キリストは罪人の友であり、見放された人の救いの神でした。
どんな者をも失われてはならない者として求められる方です。ですから、主は
伝道をされるのです。また、主の弟子たちに伝道するよう命じられます。そし
て主を信じる者にも。伝道する者にはその信仰を強め、力を与え、希望を与え
られるのです。まさしく、生ける神に希望を置くことができるようにして下さ
るのです。
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