2011年4月17日 受難週音楽礼拝
「闇の中の声」
マタイによる福音書 27章45-56節

伊藤 大輔(いとう だいすけ)
銀座教会副牧師
1963年 東京に生まれる
1987年 東京神学大学大学院を修了
高知南国教会
武蔵野教会
八王子めじろ台伝道所
北千住教会
の牧師を歴任。
青山学院高等部
横須賀学院
等で講師。
2011年 銀座教会副牧師に就任
 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。
 主イエスの十字架上での最後の言葉。
 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。
 神の子・メシヤの言葉としては非常に弱々しいものに思えます。十字架上で死ぬにしても、もっとメシヤらしい明快な言葉がふさわしいように思えます。
 この言葉のどこに私たちは弱々しい印象を持つのでしようか。「なぜ見捨てたのか」。神様から見放された孤独感を醸し出す表現であると共に「問いかけ」で終わっていることにその印象を持つのではないでしょうか。私たちは期待します。「問いかけ」という未解決なものではなく、何もかもが分かっている「答え」の言葉、はっきりした言葉が主の最後には相応しいと。「問い」ではダメだ。私たちにも納得いく「答え」の言葉こそ主イエスには相応しいと期待します。しかし、実際には主イエスの最後の言葉は「問い」の言葉です。
 私たちは考えてみる必要があるのでしょう。どうして「問い」なのか。「問い」とは何か。「問い」は本当に弱々しい言葉なのか。「問い」は主イエスには相応しくない言葉なのか。
 「問い」についての意味づけを私たちは持っています。答えにたどり着いていない中途半端な言葉。行き先が定まらない途中の言葉。「問い」は未完成で、その先にある「答え」こそが完成品、価値あるものであると。「答え」と「問い」。私たちはこの両者の価値付けを持っています。優劣を決めています。「問い」よりも「答え」だ。
 このような整理もすでに「答え」の思考です。「答えが優れている」という「答え」を持っているのです。そして、その「答え」は疑ったり修正したりする必要のないものとしています。変わらないもの、揺るぎないものとして「答え」を大切にします。「答え」も持つこと、「答え」を実現することで私たちは安心・安定を、幸福を獲得できると考えています。「答え」があれば大丈夫。「答え」は絶対のものだ。
 それでは現実の中で、歴史の中で「答え」は何をしてきたか振り返ってみましょう。
 「アジアの平和」という答えを持ちました。「独裁者からの解放」「民主主義の確立」という答えを振りかざしました。「正義と平和の実現」という答えに集結しました。「答え」が社会の中で立ち上がった時、何が起きましたか。何人の命が奪われましたか。何回の戦争が起こりましたか。
 「答え」は立派なものです。その立派なものが社会の言葉になると戦争が起こります。人の命が奪われていきます。
 「それは『答え』が間違っていたからだ。正しい『答え』を出せば大丈夫」。そう言うかもしれません。本当にそうでしょうか。
 私たちが今直面している不安や恐怖も「答え」が作り上げた状況でしょう。 
 「安定した暮らし」「経済的できれいなエネルギーによる豊かな生活」。それが「答え」になりました。その「答え」を目指してきました。そしてその「答え」が今私たちに突きつけている現実は、またしても私たちの命を、未来を奪っていくものです。
 「良い答えなら大丈夫」ではないのでしょう。「答え」はいつも私たちの命を奪おうとします。
 「答え」とは何でしょうか。「答え」は「これが正しいもの」とはっきりと言います。「これでないもの」「あれ」は間違っていると言います。「答え以外はダメ」「これ以外はダメ」。他のものを認めない、他者を否定する言葉が「答えの言葉」です。他者はいらない。他者を捨てる言葉。それは命を奪う言葉ということです。
 私たちは「答え」に憧れます。しかしそれは他者を否定する冷たい言葉を持つということです。「他にいく必要はない。ここに留まっていれば良い」という動かない言葉、止まっている言葉、それが「答え」です。
 これに対して「問い」を弱々しいものと感じます。はっきりしていない、未解決なものと思います。中途半端なもの、揺れ動いているものは弱いものだ、と。
 「問い」を軽視する。それは私たちが命をどう考えるか、と関連しているのでしょう。「生きる」ことの目標はちゃんとした「答え」を持つことだ。それは「生きることは止まることだ」と言っているのと同じです。止まることが「安心」を生むと思い込む。それは「死」を慕っていることと同じです。
 命は動き回ります。先へ先へと進んでいきます。予測不可能な動きをします。私たちの脳に治まらない。分からなくなります。動くもの・予測できないものに対して私たちは不安を覚えます。不安を放置しておいてはいけない。処理をします。分からないものはいらない。自分の知っているものだけでやっていこう。自分の中に入り込み「予測できない」「動く者」「他者」とのふれあいを避け、固く冷たくなっていきます。
 「わが神、わが神、何ゆえ、わたしをお見捨てになったのですか」。主イエスは問います。十字架を、死を「答え」とはしていません。ここが止まる所、ここが最後の所とは考えていません。
 「神様はわたしを見捨てた」「三日目に復活するのでこれは通過儀礼だ」そんな止まった言葉を語りません。ご自分の中で現実を処理してはいません。
 「なぜですか」。問います。父なる神に次の言葉を求めます。もうすぐ息絶える、その時にあってもまだ聞き耳を立てています。相手を求め、次を求めます。
 「問い」は弱々しい言葉ではありません。他者と向き合う毅然とした温かい言葉です。自分の世界に閉じこもるのではなく次を求め開かれていく言葉です。未来を信じる言葉です。「問い」は希望の言葉です。
 不安の中にあって私たちが求めるのは「新しい答え」ではありません。問うていくことです。「問い」こそが開かれた世界に通じる言葉。命に至る言葉。信仰の言葉なのです。



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