2011年10月23日 聖霊降臨後第19主日礼拝
「あかるい道」
ヨハネの手紙一 3章11-18節

伊藤 大輔(いとう だいすけ)
銀座教会副牧師
1963年 東京に生まれる
1987年 東京神学大学大学院を修了
高知南国教会
武蔵野教会
八王子めじろ台伝道所
北千住教会
の牧師を歴任。
青山学院高等部
横須賀学院
等で講師。
2011年 銀座教会副牧師に就任
 ヨハネの手紙の記された状況は私たちの「今」と似ています。手紙はローマ帝国によって神殿が破壊され、国家が奪われた状況で記されました。未来が見えない。希望が持てない。今の私たちの状況もまた、ひとつ蓋を開けると、とんでもないものが飛び出してくる不安な現状です。うっすらとした闇に覆われている毎日です。
 ヨハネの手紙は昔の遠くの言葉ではありません。今の私たちにも語られている言葉です。
 そのヨハネの手紙ははっきりとした口調、論理を持って手紙を記します。いわば「正しい道」と「間違った道」を明確に語ります。間違った道の者については大変厳しいです。「自分の罪を自覚出来ない」「反キリスト」「命のない者」とまで言います。そして、「カイン」を象徴的に持ち出し、彼らの特徴を示します。彼らはカインのような者だと。
 カインとはどのような者だったのでしょうか。カインは人類最初の夫婦の子供です。最初の家族の一員です。最初の家族の中で、最初の事件が起きます。殺人です。カインが弟のアベルを殺したのです。
 弟と一緒に神様に捧げものをしたのに、神様は弟のものは顧み、カインのものには見向きもしなった。それが原因でカインは弟を殺します。カインは世界で最初に人を殺した者です。そして、もう一つカインが最初に行ったものがあります。「怒る」ということです。聖書の中で最初に「感情」について記されているのはこの部分でしょう。カインは「怒った」者です。
 山上の説教(マタイ5・1以下)で主イエスは「昔の人は『殺すな』と言っている」と言います。私たちもこの程度のことなら守れるような気持ちになります。殺人は関係のないものだと。ところが主の言葉は続きます。「しかし、私は言う。兄弟に腹を立てる者は誰でも裁きを受ける」。こうなってくると無関係ではいられなくなります。殺人は遠いものであっても「怒り」は私たちのすぐそばにあります。しょっちゅう行っていることです。主は山上の説教において「怒るな」と言います。そして創世記は殺人を犯したカインの原因に「怒り」があると言います。「怒り」という感情を聖書は軽く見てはいません。大きな事柄として扱っています。
 では、「怒り」とは一体なんでしょうか。私たちが体験する怒りを思い出してみましょう。「私を裏切った」「私が不快な思いをした」「私だけがどうして不幸なのか」。私たちは怒ります。怒ることが正しいこと、必要なことと感じて怒ります。しかし、そもそも私たちは、そういう経験をした時にどうして「怒り」という感情を発動させるのでしょうか。「怒り」を生み出す根本にあるものはなんでしょう。
 それは「私が正しい」という思いです。「私の感性はまちがっていない」「私の判断は正しい」「私の・・私は・・」。
 私たちは自分で自分にしがみつきます。自分を握りしめ、執着、固執をします。その執着、固執を起爆剤にして「怒り」を誘発させます。「怒り」の元にあるものは「私は正しい」という信念という執着です。
 ヨハネの手紙は「彼ら」は人殺しであると語ります。そして、彼らと違う道を行く「私たち」に対しては「愛しあえ」と言います。
 愛とはなんでしょう。これについて主イエスは言います。ヨハネの手紙にも同じ内容のものがあります。「愛とは命を投げ出すこと」です。
 命を投げ出す。それは手放すこと。固執しないこと。執着を捨てることです。
 しかし、私たちは心の中でつぶやきます。「執着を捨てて、一体何か良いことがあるのか」「命を捨てても無駄死になるのではないか」「なんのために愛さなければならないのか」。
 ヨハネの手紙はその書き出しにおいてはっきりと語ります。
 「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち命のことばについて」(1・1)
 これははっきりと分かる、ということを言っています。
 「執着を捨ててなんになるのか」。はっきりと分かるようになるのです。神様の御心が、神様の御計画が、神様の恵が、はっきりと分かるようになるのです。
 それでも、わたしたちのつぶやきは収まらないかもしれません。「神様の御心が分かるというのはすばらしいことだが、自分には執着を捨てることは出来ない。自分を投げ出して愛することは出来ない。もし、出来るようになるとしたら、それはどうすれば良いのか。修行か。修練か・・・」
 わたしたちはこういう問いに対してはっきりとした答えをすでに持っています。ここにいる誰しもが、この問いに対して答えられるはずです。
 礼拝を守る。
 ここで行われていることは「私を捨てる」という業です。礼拝は神様を崇めるためのものです。自分の願いや、不平不満を神様に報告することが礼拝ではありません。礼拝は「私」を確認するところではありません。礼拝は「神を神とする」ところです。ただ、神様だけに集中する。それは自分を捨て去ることです。固執や、執着を捨てること。私が死ぬこと。それが礼拝で起こっていることです。
 自分を捨てた時、神様を愛した時、何が生まれるのでしょうか。
 「神に願うことは何でもかなえられます。わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。」(3・22)
 この言葉はここで表現されている以上の内容を持っているものと思われます。「私の願いが適う」それは確かに幸せな出来事のように思えます。しかし、私たちは本当に、自分に相応しい願いを自覚しているのでしょうか。本当はもっと大きなことを願っても良いはずなのに、それに気がつかず、小さなことしか願っていることはないでしょうか。
 御心に適う。願いが適う。
 神様が私たちに準備しているものを受け取る。中途半端な、人の経験や、予定で作られた「願い」ではなく、神様の大きな恵みにのみ込まれ喜びを味わう。
 自分の願いなど捨てた方が良いのかもしれません。ただ「神の国と神の義を求める」。神の前で命を投げ出した者は、神の恵みを知ることが出来るのでしょう。
 私を捨てて、神の命に生きる。それは不安な暗い道ではありません。人の思いをはるかに超えた「あかるい道」です。神の命によって進んでいく。礼拝において私たちが求めているのはその道です。そして、その道は私たちの前に確かに備えられています。



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