| 2000年5月13日 復活節第5主日礼拝説教 「ヨセフ物語(2)」 創世記45章1〜13節 |
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ヨセフは兄たちの憎しみのためエジプトに売られ奴隷となり辛酸を嘗めたが、 父祖の信仰を継承することによって、やがてパロの夢を解き、エジプトの司 政官に出世し、エジプトを飢饉から救うために働いた。アルブレヒト・アル トによれば、族長たちの神は「アブラハムの神、ヤコブの神、イサクの神」 というように個人の名と結びついていた。この神は父から子へと継承され、 彼らとともにさすらう神であって、自然や特定の場所と結びつくカナン周辺 の神と全く異なる特徴を持っていた。それによってヨセフは故郷を離れても 「神ともにいます」という信仰を保持できたのである。 (2) エジプトの飢饉は周辺にもおよび、ヨセフの故郷でも食料が欠乏した。そこで ヤコブは兄弟たちに、エジプトにいって食料を買ってくるように命じた。末子 のベニヤミンを同行させなかったのは、ヨセフのこと以来兄弟たちを信用して いなかったからである。 エジプトにくだった兄弟たちは、食料の監督をしていたヨセフの面前に立った。 ヨセフは一目で兄たちと分かったが、兄たちは目の前にいるエジプトの高官が ヨセフとは気付かなかった。このときヨセフは少年の時、兄たちの麦束が自分 の麦束に平伏した夢を思い起こした。この「思い起こす」(ザコール)はremember、 つまり「覚えている」という意味である。思えばヨセフの有為転変はあの夢が 原因であった。どうして忘れることができよう。ところがいまその夢が実現した。 ヨセフがそれをどのように考えたか。これがヨセフ物語後半のテーマである。 (3) ヨセフはそしらぬ振りをして荒々しい口調で兄たちをエジプトの隙をうかがう スパイときめつけ、牢屋に放り込んだ。そして三日後兄たちに「お前たちの命 を助けてやろう。わたしは神を恐れるものだ」(42:18)といい、シメオン を人質として残すかわりに、故郷に帰ってベニヤミンを連れてきて身の証を立てよ、 といって食料を持たせてカナンに帰らせた。兄たちは一部始終ヤコブに報告したが、 ヤコブはベニヤミンを連れていくことに反対した。しかし、やがて食料が尽きる と兄たちの提案を受け入れベニヤミンを同行させることにし、彼らはカナンの 特産物と返された銀を持たせて再びエジプトにいかせた。兄たちはエジプトに 着くと、今度はヨセフの家で歓待を受ける。しかし、帰途に着くとヨセフの家 の執事が追いかけてきて、主人の大切な銀の杯がなくなった、お前たちの持ちもの 検査をする、もし盗んだものがいれば、そのものは主人の奴隷にならねばならない、 といった。検査の結果ベニヤミンの袋から銀の杯が発見された。これはすべて ヨセフの差し金であった。驚愕した彼らは一同でヨセフのもとに引き返し、 ヨセフと対面する。 (4) ヨセフはなぜ兄たちを三日間も牢獄に監禁したのか。おそらくヨセフはこの間に あの夢の意味について考えたにちがいない。いまやヨセフは他人の夢を解くので なく、自分の夢を解かねばならなかった。兄たちへの残酷な復讐もいまのヨセフ には可能である。しかし、ヨセフの結論は三日後兄たちへ言葉に現れている。 それは「神を恐れる」ということであった。これはまさにアブラハムの信仰を 継承している(21・11)。浅野順一先生はつぎのようにいわれた。 「旧約聖書において信仰ということ、神を信じるということをもっとも代表的に いいあらわしている言葉は『恐れる』であります。神を愛するとか、信じるとか、 知るとかいうことよりもまず神を恐れるということであります」 (浅野順一著『旧約聖書を語る』NHKブックス、190ページ)。 (5) なぜヨセフは様々な策略を用いて兄たちを窮地に追い込むのか。物語として面白い かもしれないが果たしてヨセフの真意は何処にあるのかという疑問がわく。しかし、 見落としてならないことはヨセフの涙である。彼はこの物語のなかで七回も号泣 している。いずれも肉親との対面の時である。このようなヨセフの態度は、策略を 用いて兄たちを窮地に追い込む態度と全く正反対である。我々はこれによって ヨセフの真意を推し測ることができる。ヨセフはおびえている兄たちにいった。 わたしはあなたたちがエジプトに売った弟のヨセフです。しかし、いまは、わたしを ここに売ったことを悔やんだり、責めあったりする必要はありません。命を救う ために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。わたしを ここへ遣わしたのはあなたたちでなく、神です」(45:4-7)。ヨセフは 自分を通して神の救いの計画が実現したと堂々と述べている。しかし、その背後には、 ゆるしを乞う兄たちの態度に号泣するヨセフの姿を見逃してはならない。 ヤコブの死後、再びゆるしを乞う兄たちにヨセフはまたもや涙を流しながらこういった。 「あなたがたはわたしに悪を企みましたが、神はそれを善に変え、多くの民を救う ために今日のようにしてくださったのです」(50:20)。ヨセフは、 人をゆるす行為は神の摂理を信じる信仰による、と涙ながらにいっているのである。 (6) ヨセフの生涯は信仰による勝利の人生であった。しかし、その勝利は、エジプトで 最高の地位に着いたことでも、兄たちがかつての夢のように自分に平伏したことで もなく、まさに、彼が涙を流しながら神のご計画に従ったことによるのである。 神の摂理は人間の思い通りになることでなく、神のご計画が自分を通して実現する ことなのだ。神のご計画とはイエス・キリストによって神の愛が現れ、和解が、 神と人、人と人との間に実現したことである。我々はイエス・キリストの贖いに よって、我々の日常生活のなかに「ゆるし」と「愛」を実現しなければならない。 「御子イエスの血すべての罪より我らを清む」(ヨハネT 1:7)といわれるのは、 我々はゆるされて生きている、否、生かされているということに他ならない。神の ご計画通り、イエス・キリストによってゆるされて生きているのであるから、どう して人をゆるさないことがあってよいだろうか。ヨセフの涙をおのれの涙として、 神の摂理を信じる信仰により、人をゆるし、またゆるされて生きるために、その 拠点である教会の伝道の働きに参与し、この世において「平和をつくりだす者」 となろうではないか。 |
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