| 2001年7月8日 聖霊降臨後第5主日 礼拝説教 「敵を愛しなさい」 マタイによる福音書 5章44節 |
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(1) さて、この言葉は、イエスが弟子たちに向って語られた言葉であることを考える必要があります(マタイによる福音書5章1節)。つまり、山上の説教はすべての人が守るべき一般 的道徳ではなく、イエスの弟子としてイエスに従うものに与えられた言葉なのであります。ですから、「敵を愛しなさい」というみ言葉を学ぶためには、まず、イエスの弟子であるとはいかなることか、考える必要があります。 (2) たとえば、ペトロの場合を考えて見ますと、彼はガリラヤ湖の漁師でした。彼が兄弟のアンデレと湖で魚を捕るために網を打っているのをご覧になったイエスが、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイによる福音書4章19節)と言われたところ、彼らは、すぐに網を捨ててイエスに従ったのでした。弟子「マセーテース」という言葉は「従うもの」という意味です。その時ペトロは一心不乱に湖で魚を捕っていました。漁をするのにキョロキョロ回りを見たりしていては漁はできません。ですから、おそらくペトロはイエスが近づいてきたことに気付かなかった。しかし、イエスが一心不乱の漁師ペトロをご覧になって声をかけたのです。つまり、イエスの弟子になるということは、弟子になる方から「弟子にして下さい」と言うのでなく、イエスから「わたしについてきなさい」と呼びかけられて弟子になるのです。これを「召命(calling)」と言います (3) さて、イエスからわたしたちが呼ばれることは、どうしたら起こるのでしょうか。イエスは2000年前の人です。ペトロのようにイエスと同時代ならいざ知らず、21世紀のわたしたちはどうしたらイエスの弟子になれるのでしょうか。その答えはこうです。じつは2000年前にイエスが弟子を呼ばれてから、世から世へとバトンを引き継ぐリレーのようにイエスの言葉を伝えてきたリレーのチーム組織がありました。それがペンテコステの日、聖霊降臨によって始まった教会です。そして、バトンにあたるものが聖書です。ですから、わたしたちがリレー競争のバトンを受け取るように、教会から聖書を受け取ってそれを読めばよいのです。そして、世々の教会がリレーのバトンのように引き継いできた聖書がわたしたちの目の前に差し出されています。そして、ペトロの召命と同じことが2000年続いたリレーの最先端として、いま、起こる。それがいま、わたしたちが守っている礼拝であります。 (4) ところで、この言葉は、厳密に言うと、ただ「敵を愛せ」というのではなく、原文から逐語的に訳すならば「あなたの敵(複数)を愛しなさい」ということです。英訳で"Love your enemies."というとおりです。ここでいわれている「敵」とは一般的、抽象的な「敵」ではなく、極めて具体的な「あなたの敵」のことであり、しかも、その敵は一人じゃない、うじゃうじゃいる、というわけです。そしてその「うじゃうじゃいるあなたの敵たちを愛せ」とイエスはいわれました。ではその敵とはどういうものでしょうか。ここでイエスがいわれる「敵」は、厳密に言うと、イエスの弟子を弟子であるゆえに迫害する存在を指しています。すなわち、「敵」は「あなたを迫害する者」を指していることは文脈から一目瞭然です。ですから、ここで言われている「敵」は、自分をイエスの弟子と思わない人には現れません。しかし、少しでもイエスの弟子になろうとすれば、あるいはイエスに従おうとするならば、確実にわたしたちの前に立ちはだかり、イエスに従おうとするのを邪魔するばかりか、迫害するものが現れます。あるときは、「敵」は外からでなく、自分の内側からも現れます。ですからその敵をどうにかしなければならない。そこでイエスは言われます、「あなたの敵を愛せよ」と。しかし、一般 的に「敵」とは戦わなくてはならない相手のことです。ですから、わたしたちは敵を打ち負かして滅ぼさなくてはならない。相手を滅ぼさなければ、自分が滅ぼされてしまう。喰うか、喰われるかの関係です。そのような敵を愛するなどどうしてできるでしょう。とてもできることではありません。ではイエスはできそうもないことをどうして弟子たちにお求めになるのでしょうか。 (5) ここで、わたしたちは、「敵を愛せ」と言われたイエスその人に注目しなければなりません。イエスは「わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい」と言われました。じつに驚くべきことに、イエスはこのように弟子たちに語られたばかりか、それを実行されているのです。イエスは十字架につけられて、そのみじめな姿をあざけられ、ののしられたとき、イエスはそれらの人々のために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」(ルカによる福音書23章34節)と祈りました。つまり、イエスは、ほんとうに敵を愛したお方なのであります。このことが今日の聖書を読み解く奥義です。「敵を愛せ」と言われたその方が、じつに敵を愛した方であったのです。つまり、イエスが「あなたの敵を愛せよ」と言われたのは、人間には到底不可能な愛、すなわち、神の愛を弟子たちに示そうとされたのであります。そのように、神の愛は、敵にまで及ぶ愛であるからこそ、神にさからい、神の敵であるわたしたちが救いにあずかることができるのであります。 けれども、わたしたちは自分たちが神に逆らい、神に敵するものであることが本当に分かっていないのです。ではどうしたらそれが分かるようになるでしょうか。じつは、自分がどんなに罪深いものであるか、どんなに神に逆らっているか。それはいくら自分を見つめても分かりはしないのです。ではどこで罪を知るのか。それがキリストの十字架です。十字架の上で流されている血潮、その苦悩、神の独り子が十字架にかかって血を流しているのは、わたしたちの罪を引き受けられているからなのです。わたしたちはキリストの十字架以外のところで自分の罪を知ることはできないのであります。あのパウロが、神は敵を愛する愛、すなわち、キリストの愛をわたしに注いでくださった、と悟ったのは、「サウロ、サウロ、どうしてわたしを迫害するのか」というダマスコ途上のイエスの呼びかけでした。 (6) パウロは旧約聖書の言葉(箴言)を引用し、「」(ローマの信徒への手紙12章20節)と言っています。これこそ敵を愛する愛によって呼び出されたパウロを浮き彫りにしています。要するに、わたしたちもイエスに呼ばれ、イエスの弟子として自覚すればするほど、多くの敵に囲まれている事態はますます深刻になってきます。しかしそのことにひるまず、信仰による戦いが大切です。その戦いはつらくて、厳しいものなのですが、その戦いはわたしが勝つのでなく、神が勝利し給う戦いです。ですから人間のレベルでは敗北に見えても、落胆してはなりません。パウロはまた、次のように言っています。「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(フィリピの信徒への手紙3章18〜20節)。このようにパウロも「キリストの十字架に敵対する者」が多いことに涙を流しています。しかし、イエスは次のように言われました。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちはたちも、同じように迫害されたのである。」(マタイによる福音書5章11〜12節)。イエスが「喜びなさい。大いに喜びなさい」と言うのは「泣くな、涙をぬ ぐえ」という意味です。ですからパウロははっきりと言っています。「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ローマの信徒への手紙8章31節) (7) 愛する兄弟姉妹、神がわたしたちの味方であることとは、わたしたちが誰にも負けない強い人になることではないのです。無力のままでよいのです。いや、無力でなければならない。なぜなら、わたしたちは敵を憎み、敵を打ち負かす勝利でなく、「飢えていたから食べさせ、乾いていたら飲ませる」ことによる勝利をキリストによって与えられるからであります。これが「敵を愛しなさい」ということなのです。もし、わたしたちが「そんなことはできない」と言っているうちは、まだ神の愛が見えていないのです。キリストの十字架が何であるのか分かっていないのです。もし、イエスの呼びかけを少しでも悟ることができるならば、すなわち、敵を愛した方が、敵を愛せよ、と言われていることを理解したら、その人は何とかしてイエスに見習おうとするでしょう。迫害の嵐が吹き荒んだ初代教会で「敵を愛し、迫害するもののために祈れ」というイエスの言葉は当時の教会の人々の信仰をどれだけ励ましたことでしょう。ですからわたしたちも、「敵を愛しなさい」という今朝の御言葉を読み解いて、イエスの呼びかけをしっかりと受けとめ、御国実現の戦いに奮い起とうではありませんか。 |
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