2002年1月13日 公現後第1主日
「信仰のパラドックス」
聖書 マルコによる福音書9章14-29節

小林 宏(こばやし ひろし)
横浜共立学園理事長
       
1924年 東京に生まれる
1941年 銀座教会にて今井三郎牧師より受洗
1950年 日本基督教神学専門学校
(現東京神学大学)卒業
1953年 名古屋中央教会牧師
1958年 横須賀学院宗教主任
1961年 基督教学校教育同盟主事
1991年 関西学院高中部長
2001年 横浜共立学園理事長
(1)
 今朝は、「信仰のバラドックス」という題でお話をいたします。 バラドックスというのは一見正反対のような二つ命題が、お互いに 作用しあう働きを考えることによって、あらたに重要な真理を示す ことをいいます。例えば、「生きる」ということと、「死ぬ 」とい うことはまったく正反対のことでお互いに相入れない命題です。し かし、よく考えて見ると、生きるということと、死ぬ ということは 見えないところでつながっています。すなわち、生きることは死に つつあることであり、死ぬことは生きていなくては死ねません。要 するに生と死は一見正反対のことで別 々の命題のように見えるけれ ども、実は、切り離すことことができない命題なのです。だから、 生を考えるときはいつも死を考える必要があり、その逆もいえるこ とになります。そして、常に生と死を切り離さずに考えることが人 間にとってきわめて重要な人生の真理をあらわすことになるわけで す。このようなことを、人生における生と死のパラドックスという ことができます。  さて、今朝は、生と死のパラドックスのことではなく、信仰のパ ラドックスについてお話しします。というのは、今朝のテキストの 中で、とても不思議なことが出てくるのです。それは、マルコ9:24 に悪霊にとりつかれた子どもの父親が、イエスの言葉に答えて「信 じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫んでいることで す。この父親は「信じます」と言ったのに、すぐそのあとに「信仰 のないわたし」と言っています。信じることと、信仰がないことと は正反対です。言葉の上だけを見るならば、この父親はつじつまの 合わない、わけの分からぬ ことを言っていると言われても仕方があ りません。しかし、実は、この父親が言ったことは、信仰にとって 非常に重要な真理を言っているのでした。そこでわたしはこれを、 信仰のパラドックスとしてその深い真理を理解したいと思い、これ からご一緒に考えてゆきたいと思います。

(2)
まず、テキストの物語のあらすじを申し上げましょう。イエスが 親しい3人の弟子、ペトロ、ヤコブ、ヨハネをつれて高い山に登って イエスの姿が変わった「山上の変貌」という出来事の直後のことで す。イエスがふもとのほかの弟子たちのところに帰ってくると、弟 子たちが群衆に取り囲まれて律法学者たちと論争していました。悪 霊に取り付かれた子どもから霊を追い出すことができなかったこと が論争の原因でした。おそらく群衆が「あなたがたは悪霊を追い出 せると言ったのに、追い出せないじやないか」と言ったのに、弟子 たちが「いや霊にもいろいろあって、この霊はしたたかでなかなか 追い出せないのだ」と弁解をすると、そこへ学者が加わって、「そ のしたたかな霊とはなにか。子どもに取り付く霊にどんな種類があ るか言って見ろ」などと突っ込まれて弟子たちが立ち往生していた のではないか、と思われます。イエスはまず、冷静に事情を聞き、 「その子をわたしのところに連れて来なさい」と言われました。そ れとともにイエスは「なんと信仰のない時代なのか」と言われてい ます。これは、要するに、悪霊が追い出せないということが、信仰 に関わりがあることを示しておられるのです。  さて、子どもとその父親がイエスのところにくると、子どもに取 り付いている霊がイエスを見て、すぐに子どもを引き付けさせまし た。子どもは地面 に倒れ、転びまわって泡を吹きます。イエスは悲 惨な子どもの姿を見ながら、父親に「このようになったのは、いつ ごろからか」とやさしく病歴を聞きました。このようなイエスの応 対に、イエスのやさしさ、病者への愛があらわれています。父親は イエスに今までの様子をお答えすると共に、そのようなイエスにこ の子をなんとかしてほしい、と頼まずにはいられませんでした。そ して次のように言いました。「おできになるなら、わたしともを憐 れんでお助け下さい」。するとイエスは言われました。「『できれ ば』と言うか。信じるものには何でもできる」。父親はイエスの弟 子が子どもを癒せなかったことを眼のあたりに見ていましたので、 イエスに「おできになるなら」と藁にもすがる思いで言ったのです が、心のどこかにイエスに対して確信のもてない部分があったと思 います。イエスは父親のその心のゆれを見逃されませんでした。 「できれば」と言うのではだめだ。なぜ信じられないのか、と父親 に迫りました。このイエスの気迫の背後には、イエスのやさしさ、 愛があります。「『できれば』と言うのか。信じるものには何でも できる」という言葉は、イエスの愛が中途半端でないことをあらわ しているのです。父親はハッと気付いてすぐに言いなおしました。 「信じます」。しかし彼はどうしてもそれに続いて「信仰のないわ たしをお助けください」と言わざるをえませんでした。これはどう したことなのでしょうか。父親は言わなくてもいいのに「信仰のな いわたし」と言ってしまったのでしょうか。もし、「信じます」と 言い切れなかったとしたら、イエスに叱咤激励される以前の心のゆ れと少しも違わないではありませんか。

(3)
 ここで最初に申し上げたパラドックスということを思いだして下 さい。実は、この父親が言ったことは、信仰のパラドックスなので す。たしかに、「信じます」ということと「信仰のないわたし」と いうことは矛盾しているように見えます。信じるなら、信仰のない わたしではないはずだし、信仰がないなら、信じますとは言えない はずです。そもそも矛盾というのは、韓非子が言ったことで、つぎ のような話です。 「楚の人に、盾と矛を売る者がいた。盾を誉めては「この盾はどん な鋭い矛でも破ることはできない」と言い、矛を誉めては「どんな 盾も必ず破る」と自捜した。そこである人が「ではおまえの矛をもっ て、おまえの盾を突いたらどうなるか」と言うと、答えることがで きなかった」。  しかし、この父親が言った「信じます」と「信仰のないわたし」 ということは、矛盾の話に出てくる盾と矛とはちがって、一見正反 対のように見えるけれども、実は、お互いに作用する働きであらた な真理を示しているのです。つまり、「信じます」と「信仰のない わたし」とは単なる矛盾ではなくて、パラドックスなのです。わた しはこれを「信仰のパラドックス」と考えるのです。  さて、この父親が言った言葉が単に矛盾する命題でなく、信仰の パラドックスとして深い真理を示すものだ、という手がかりが、こ の物語の中にあります。それは、この物語の終わりのところで、弟 子たちがイエスに「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかった のでしょうか」(28節)と尋ねたときのイエスのお答えです。イエ スは言われました「この種のものは、祈りによらなければ決して追 い出すことはできないのだ」(29節)。要するに、イエスは、霊を 追い出すことは「祈りによる」と言われているのです。弟子たちに 足りなかったのは、祈りだ、とイエスは言われています。ではこの 祈りとは何でしょうか。このふびんな子を癒すカは、何をさておき、 祈りだ、というのはどういうことでしょうか。  まず、イエスが言われた「祈り」は病気を癒していただく側の祈 りでなく、癒す側の祈りです。つまり、病気が癒される場合、癒す 側に、祈りがなくてはならないと、イエスは言われたのでした。で は、癒す側の祈りとはどういうことなのでしょうか。それはイエス が病人に接している場面 をよく見ればわかります。すなわち、そこ にはイエスがいかに病気の子と父親にやさしく愛を注いでいるか見 ることができます。病人へのかぎりなくやさしい愛、これがイエス の祈り、霊の働きなのです。すなわち、イエスの祈りは愛として働 く祈りです。「霊の結ぶ実は愛である」(ガラテヤ5:22)とパウロ も言っています。病を癒すのは病人への愛なのです。弟子たちの欠 けていたのはこの祈り、病人への愛でした。近代看護学を確立した ナイチンゲールの「治療されるべきは、病人であって、病気ではな い」という認識も、その源流は聖書におけるイエスの愛による癒し にあります。ナイチンゲールの伝記を読めば、披女が少女の時から 敬虔なクリスチャンであったことを知ることができるでしょう。 イエスの福音のメッセージは、この病める時代に、愛による人間性 の回復をもたらすものといえます。

(4)
 次に、父親がイエスに答えた言葉に注目したいと思います。父親 の「おできになるなら、わたしどもを憐れんで助けて下さい」(22節) と言った言葉が、イエスにお願いする言葉として中途半端であるこ とをイエスから指摘され、ただちに「信じます。信仰のないわたし をお助け下さい」(24節)と言いました。これは一見つじつまのあ わない矛盾した言葉のように見えます。しかし、この父親の言葉を 物語の状況の中で理解すれば、それは、父親がイエスのやさしさと 愛に打たれた必死の「叫び」でした。イエスの真実な愛の迫りが、 父親の真実な信仰を引き出したのです。そして、この父親の叫びは、 信仰とは自分を無にする祈りであることを、見事にあらわしていま す。それは、信仰のパラドックスです。すなわち、「信じます」と 真剣に告白するとき、信仰のない自分に気付かされるのです。そし て、信仰のない自分に気付くならば、イエスの愛によって、「信じ ます」と言うことができることがわかるのです。そしてイエスがこ の子から悪霊を去らせるために悪霊に「この子から出て行け」(25節) と命じられると、「霊は叫び声をあげ、ひどく引き付けさせて出て いった」(25節)。そしてイエスは死んだように横たわっているこ の子の「手を取って起こされると、立ち上がった」(27節)と記さ れています。この「手を取って」という動作は、イエスがペトロの しゅうとめの熱を去らせたとき(1:31)も、会堂司ヤイロの娘を 癒したとき(5:41)も同じようにしておられます。この動作をも う少し詳しく説明すると、イエスがご自分の手でこの子の手をしっか り握って引き起こし、立ち上がらせているのです。わたしはイエス が病人を癒し、立ち上がらせるために、病人の手をしっかり握って 引き起こされた「イエスの手」に注目したいと思います。そして この手について黙想するとき、その手は、イエスが十字架につけ られたとき、十字架に釘で打ちつけられた手であることを悟るの です。復活された主イエスが弟子たちに現れたとき、ご自分の手 の釘の後をお見せになったのは、その手で病人を立ち上がらせた 手だったからです。従って、この物語は、キリストの十字架と復 活に裏付けられています。そしてそのイエスの愛の手は全世界の 悩める人、苦しむ人を立ち上がらせる力強い手なのです。わたし たちはいま、イエスの御手がわたしたちに指しのべられているこ とに気付くべきです。

(5)
 さて、わたしたちは、洗礼を受けるとき、「われ信ず」と信仰 を告白します。しかし、それは、自分が信じたことを確信を持って 告白することでなく、このわたしに信仰を与えて下さった神の前 にひざまずくことなのです。言い換えると、御子イエスの血がわ れらのすべての罪を清めなければ、「われ信ず」と言うことはで きません。なぜなら信仰とは自分を無にする祈りだからです。 パウロはエフェソの信徒への手紙2章8節で次のように言っています。 「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。 このことは、自らの力によるのでなく、神の賜物です」。信仰の ないものが、自らの力によらないで、「われ信ず」と言うことが できるのが、信仰のパラドックスです。自らのカによらないなら、 何によるのか。それが神の賜物であり、まさしく聖霊の働きです。 聖霊はキリストの十字架による救いを我々にもたらします。そし て、聖霊が働くところ、そこがキリストの教会です。皆さんは今、 その教会におられます。教会は建物でも、人間の集まりでもあり ません。教会は、信仰のないものが、自らの力によらないで、神 の賜物として、信仰が与えられるところです。どうか今日わたし たちが、信仰のパラドックスからキリストの十字架と復活の奥義を 悟り、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と、十 字架の主のみもとにひざまずきたいと思います。



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