2002年3月31日 復活主日(イースター)夕礼拝
「エマオ途上のキリスト」
ルカ24章13-35節

小林 宏(こばやし ひろし)
横浜共立学園理事長
       
1924年 東京に生まれる
1941年 銀座教会にて今井三郎牧師より受洗
1950年 日本基督教神学専門学校
(現東京神学大学)卒業
1953年 名古屋中央教会牧師
1958年 横須賀学院宗教主任
1961年 基督教学校教育同盟主事
1991年 関西学院高中部長
2001年 横浜共立学園理事長
(1)
 イエスが復活したその日の夕方、エルサレムからエマオに向かう二 人の旅人がいました。二人は今朝からエルサレムでおこった出来事を 話し合っていると、そこへもう一人見知らぬ旅人が一緒に歩き始めた のです。二人はその旅人の質問に答えて、ナザレのイエスについてか なり詳しく、しかも正確に語りました。しかし、二人は、この見知ら ぬ旅人が復活のイエスであることが分かりませんでした。それは彼ら の目が遮られていた(16節)からです。彼らの目が開かれたのはエマ オの宿で、この旅人と一緒に食事をしたときでした。彼らはなぜ目が 遮られていたのか。そしてどのようにして目が開けたのか。その謎を 解くことが出来れば、信仰の鈍い我々も、エマオ途上の二人の弟子と 同じように、復活のイエスにお会いすることが出来るのではないか、 と思います。

(2)
 彼らはなぜ目が遮られていたのか。彼らは何が欠けていたのか。そ のことについて見知らぬ 旅人−じつは復活のイエス−は彼らに次のよ うにいいました。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く、預言者たちの いったことすべてを信じないものたち、メシヤはこういう苦しみを受 けて、栄光に入るはずではないか」。こういって「モーセと預言者か ら始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説 明された」(25-27節)。ここで非常に注目すべきことは、イエス御 自分がメシヤであることを、聖書全体にわたって説明された、という ことです。

(3)
 さて、我々は、聖書にイエスがキリストであることが説明されてい る、つまり、聖書がキリストを説きあかす、と考えています。しかし、 ここでは、キリストが聖書を説きあかしています。この物語の要点は、 キリストによる聖書の説きあかしと、エマオの宿で、キリストが弟子 たちにパンを裂いて与えられた、という二つのことにあります。つま り、聖書の説きあかしとパン裂きがエマオ途上の復活物語の要点です。 そして、聖餐式がキリストに起源をもっているように、聖書の説きあ かしである礼拝説教もキリストに起源をもっているのです。ですから、 牧師は、聖餐式と説教を、起源がキリストにあるように正しく執行し、 正しく語らなければなりません。そして、信徒は、聖餐と礼拝説教を、 キリストに起源をもつものとして、正しく受け取らなくてはならない のです。要するに、復活のキリストに出会う奥義が、聖書の説きあか しとパン裂きにあることを、この物語は暗示しています。しかし、こ の段階で二人の弟子の目は遮られていました。

(4)
 一行はようやくエマオの村に近づきました。ところが、見知らぬ旅 人はなお先に行こうとするので、二人は無理に引き止めました。「一 緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いてい ますから」(29節)。この有様はまことに一幅の絵画のようです。 この旅人は、神の子キリストとして予定や目的があったはずなのに、 驚いたことに、二人の弟子の願いを聞き届けたのでした。これを歌った のが讃美歌39番です。

(5)
  彼らの目が開けてこの見知らぬ旅人が復活のキリストであると、わ かったのは、エマオの宿でこのお方が、食事のときに、パンを取り、賛 美の祈りを唱え、パンを裂いて渡されたときでした。ここで注目したい ことは、目が開かれてキリストであることが分かると、イエスの姿が見 えなくなったことです。つまり、目の前にイエスがいても、目が遮られ ていれば、それがキリストであることが分からず、目が開かれてキリス トであることが分かれば、姿が見えなくなる。要するに、目が遮られた り、開かれたりするのは、肉眼のことでなく、心の目、信仰の目のこと なのでした。すなわち、見知らぬ旅人が、パンを裂いて渡されたとき、 「あ、イエス様だ!」と彼らの信仰の目が開かれたのでした。このよう に目が開かれたのは、イエスが彼らと「一緒に席についた」という「一 緒」という言葉が手がかりとなります。イエスは「一緒に歩き始め」 (15節)、「一緒に泊り」(29節)、「一緒に席につく」(30節)と いうように、つねに彼らと「一緒に」おられたのですが、彼らが気付か なかったのです。同じことが我々にも起きます。

(6)
 じつは、イエスが我々と一緒におられるのに、それに気付かないとい う話が聖書にあります。最後の審判のとき、キリストが「わたしが餓え たとき、渇いていたとき、旅をしていたとき、病気のとき、牢獄にいた とき、わたしによくしてくれた」(マタイ25章36節)といいますと、い われた人々は、「わたしはあなたにお目にかかったことはありません」 というのです。そのときキリストはこういいます。「わたしの兄弟であ るこの最も小さい者にしたのは、わたしにしてくれたことである」 (マタイ25章40節)。つまり、我々は苦しんでいる「最も小さな者」と 出会うとき、復活のキリストと会うのです。マザーテレサは次のように いいました。「わたしは毎日キリストと二度お会いします。それは修道 院のミサのときと、カルカッタの路上で瀕死の病人と会うときです」。

(7)
 面白いことに、弘法大師についてよく似たお話があります。それは、 弘法大師は、今も姿形(すがたかたち)を変え、諸国を回り歩いて苦し んでいる人を助けてくれるというのです。ですから、どこかで弘法大師 と会っているかも知れません。しかし、キリストは人々を助けるのでな く、我々に助けを求める「最も小さな一人」として会われます。そうい えば、エマオ途上で、イエスは弟子たちに旅人として近づいて来られま した。彼らは、その旅人に宿を貸すことによって、復活のキリストに 会ったのです。

(8)
 皆さん、主イエス・キリストがエマオ途上で弟子たちに近づいてきて、 聖書を説きあかし、パンを裂いて下さったように、今宵、我々のところ にも来て下さり、我々の心の目を開いて下さるように祈りましょう。復 活のキリストが「最も小さな者」としていつも我々の目の前におられる ことに気付かなくてはなりません。どうかキリストの復活を信じて、人 生をキリストといつも一緒に歩むものとなろうではありませんか。  「愛は決して滅びない」(コリントの信徒への手紙一13章8節)からです。



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