| 2002年8月4日 教会全体修養会・聖霊降臨後第11主日礼拝 「主よ、祈ることを教えてください」 ルカによる福音書11章1-4節 |
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今朝は今年の教会修養会「祈りの本質を学ぶ」という総主題に沿って「主よ、祈ることを教えてください」今日のテキストからとった題でお話を申し上げたいと思います。 ある時イエス様が一人で祈っておられました。ルカは祈るイエスの姿を何回も記録しています。そのうちの一つが今日の11章の箇所です。 イエス様が祈ることを終えて周囲を見回しますと、いつの間にか弟子たちが集まっていました。弟子たちはイエス様が祈り終わるのをじっと待っていたのです。言葉が聞こえたか聞こえないかわかりませんけれども、イエス様と一緒に、祈る姿勢をとってイエス様とある時を過ごしていたと考えることができます。 ようやくイエスの祈りが終わったのを見て一人の弟子がイエスに言いました。「主よ、ヨハネが弟子たちを教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」。 バプテスマのヨハネは、バプテスマを受けること、断食をすることについて弟子たちに教えていたということです。したがって祈ることについても教えていたのでしょう。それをイエスの弟子になった一人は知っていましたので、バプテスマのヨハネと同じように、祈ることをわたしたちに教えてくださいとお願いをしたのです。バプテスマのヨハネがどのような祈りを弟子たちに教えたのかは記録に残っておりませんが、ある共同体の共通の祈りの言葉というものはユダヤ教でもラビが教えていたと記録が残されていますので、弟子たちはおそらくイエスからも、イエスに付き従う弟子としての共同体の祈りを教えてくださいとお願いしたのかもしれません。 しかし言葉の奥に、ただ共同の祈りを教えてくださいという以上に、イエスと同じような祈りの世界に導かれたい、イエスによって祈りの本質を知りたい、という願いがこの弟子の一人の言葉に含まれているように思います。 イエス様はそれを受けて「こう祈りなさい」と言って「主の祈り」をここで教えられました。ルカによる福音書のこのイエスの祈りの言葉は、現在わたしたちが用いているマタイによる福音書を基とした「主の祈り」と少し違っているところがありますが、本質は変わりません。むしろ非常に簡略になっております。 これをご一緒に学ばなければならないのですけれども、この弟子たちが「祈ることを教えてください」と言ったその奥に、祈りの言葉だけでなく、全体として、イエス様が祈りの本質をどのように教えておられるかを、わたしたちは学ばなければならないと思うのです。 そこで今年の修養会、「主の祈り」をおもに学ぶのですが、その総主題は「祈りの本質を学ぶ」としました。わたしたちは「主の祈り」を学ぶのですが、その「主の祈り」を通して、祈りの本質は何かということを、わたしたちはしっかりと学ぶ必要があると思います。 色々なご都合で2泊3日の修養会に参加できない方もおられると思いますけれども、その本質を学ぶ大切なところは、この説教で全部言われますのでご安心ください(笑)。今日の説教の「祈ることを教えてください」という祈りの本質を学ぶこのお話を聞いてくだされば、後は自分でその内容をつかむことができるとわたしは思っております。 さて、わたしたち日本人ですから全然その経験がないという人はないと思いますが、神社に詣でまして、そうすると拝殿の入り口に鈴があり、その鈴に太い紐がぶらさがっているのです。そのちょうど紐のぶらさがっている下辺りにお賽銭箱がありますから、さわって、下を見ると、お賽銭箱がある。そういう構造にできているらしいのです。参詣する人はまずその鈴を鳴らして、手を合わせて拝礼をする、参詣をするという姿をわたしたちはよく見受けるわけです。 この行為は祈りの一種であるとみなすことができますが、このような祈りは人間の側から、人間の方から神様に働きかける祈りといえます。あまり詳しくわたしは神道の人に聞いたことがないので間違っていると大変申し訳なく思うのですけれども、やはりガランガランと鳴らすのは「神様、わたし今日お参りに来ましたよ」と、人間の方から神様の方に働きかける、そして祈りが始まる、お願いが始まる、そういう形ではないかと思います。 キリスト教ではどうでしょうか。どこかに鈴でもぶらさがっているかな。鈴は何もありませんね。礼拝を始める時、わたしたちは何から始まるでしょう。まず、奏楽がありますね。しかし一番肝心なことは、礼拝のプログラムを見ていただきたいのですが、礼拝招詞、招きの言葉というのがあるのです。礼拝は、最初に聖書の御言葉によって、わたしたち、神様から招かれる。招かれてここに来ている。神様が招いてくださる、そこで礼拝が始まるのです。つまり聖書の御言葉でわたしたちが招かれていることから礼拝が始まっているわけです。 ですからキリスト教では鈴を振る必要はないわけです。「神様、来ましたよ」と言う必要はないわけです。それよりも以前に、神様の方からわたしたちをお招きになって、その招きに応えてわたしたちの礼拝が始まる。祈りも同じです。お祈りをするにも、人間の側から神様にお願いをすることが祈りの始めではなく、神様が常にわたしたちを招いておられる、呼びかけておられる、そこでわたしたちの祈りが始まるのです。わたしたちの側から、人間の側から始まるのではなくて、神様の側からの働きかけによってわたしたちの祈りが始まるのだということを知っておく必要があります。 「主の祈り」は、ルカによる福音書11章とマタイによる福音書6章の2箇所に記されてあるわけですが、そのマタイの方、マタイによる福音書6章5節に「祈るときには」という小見出しで、その下にはルカ11章2〜4節というわたしたちが今日テキストにしたことが括弧にあります。6章8節「彼らのまねをしてはならない」というのは異邦人のことを言っているわけですが、次のところです。 「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい」。これは大変な言葉です。わたしたちが祈ることを考えた時に「神様、こういうことをお願いしたい」「こうして欲しい」、そういうふうに神様に自分の願いや祈りを求めるわけでしょうけれども、この聖書の箇所は、わたしたちが願う前に、祈る前に、神様の方でわたしに必要なもの、なくてはならぬものはすでにご存じである。ご存じであるということは同時にそれはすでに備えていてくださる。ただわたしが気付かないだけである。そういう状況が祈ることの前提にある。祈りの根底にある。これがイエス様が教えてくださった祈りの本質であります。 その後で「だから、こう祈りなさい」と言って「主の祈り」を教えてくださっているわけですが、その祈りの本質はどこにあるかというと「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」とイエス様が言われているのです。これが、主イエスがわたしたちに教えてくださった祈りの本質だと言うことが出来るのではないかと思います。 「あなたがたの父は、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」。すべてご存じなのだ。これはどういうことでしょう。それは「神は愛」だということです。神様がわたしたち一人一人をこよなく愛してくださっていることが、この言葉にあらわされていると言うことができるのです。したがって、神が愛にいますことが祈りの本質だということなのです。 もし、神様がわたしたちを愛してくださらない、くださっているかいないかわからない、そういう存在であったならば、どうしてわたしたちは祈ることができるでしょう。 しかし「神は愛」である。神様はわたしたちをこよなく、一人一人愛して、わたしたちに必要なものはすべて、わたしたちが願う前に、祈る前に、考える前に、神様の方がすべてご存じでいらっしゃる。ご存じでいらっしゃるということは、それをすでに備えていてくださるということです。それが祈ることの大前提ではないでしょうか。そのことを信じることができるからこそわたしたちは祈ることができるのではないかと思うのです。 では、神様が愛であるということはどうしてわかるのか。それはイエス・キリストがわたしたちに示してくださったことであります。つまり、わたしたちがなぜ祈るか。わたしたちはどういうふうに祈るかというと、イエス・キリストが神様が愛にいます方であることをわたしたちに示してくださったからなのです。したがってイエス様によらなければ、イエス様の教えなくしては、わたしたちは祈ることが出来ないともいうことがおわかりいただけると思います。 イエス様はどのように神が愛であることをわたしたちに示されたのでしょうか。それは福音書全体、イエス様のご生涯全体がそれにあたるわけです。 「空の鳥を見よ、…野の百合は如何にして育つかを思へ」。名もない鳥、そこに咲いている花、そういうものにまで神様の愛はあらわれている。ましてあなたがたを神様が愛さないはずはないではないか。これは山上の説教の中にある有名なイエス様の教えであります(マタイ6章25〜34節)。「だから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、思い悩むな。…あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」(31〜32節)。そしてイエス様は病める者を癒し、飢えた者を養い、神の国の間近いことを人々に伝えられたのでした。 しかし、イエス様が、神が愛でいましたもうことをはっきりとわたしたちに示してくださったのは、人々の罪を贖うために十字架にかかり、三日目に復活されたこと、主の十字架と復活が、神が愛にいましたもうことをわたしたちに示したことだと言うことが出来ます。 パウロはローマ書の8章32節で「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」と言っています。ゆえにわたしたちは祈ることができる。祈ることが許されている。「祈りなさい」と聖書はわたしたちに伝えているわけです。 内村鑑三に師事した塚本虎二という方がいらっしゃいます。この方は東京帝国大学法科を卒業して役人のエリートコースを歩んでいました。ところが大正12年、関東大震災にあって、家財一切と愛する奥さんを失くしてしまったのです。財産だけならまだ、そこで家と一緒に奥さんも失くしてしまった。塚本虎二氏は焼け跡にただ茫然自失としてたたずみ「何が神の愛か」「神が愛にいますとは何なのか」そうつぶやき嘆いていた時に、これは塚本氏が書いた『キリスト教十講』という書物の中に書かれていることですが、そうして茫然自失としていた時に、塚本氏は天から「神は愛なり」という声を聞いたというのです。家を焼かれ妻を失くし、その焼け跡にたたずんでいる自分に、天から「神は愛なり」という声をはっきりと聞いた。それ以来塚本氏は無教会伝道者として生涯を捧げて多くの人々をキリストに導いた働きを致しました。 彼が関東大震災で不幸のどん底に陥って絶望していた時、なお神の愛が自分に注がれていることを天からの声で悟ったのでした。これは塚本氏の証しの一端をご紹介しているわけですけれども、キリストの十字架によって示される神の愛は、人間のあらゆる絶望を突き抜けてわたしたちに注がれている。そういうものであります。 神の子イエスがなぜ十字架にかかって「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばなければならなかったのか。それは本当は神に見捨てられるはずのこのわたしのために、神はイエスを十字架につけたことをあらわしています。そして注目しなければならないことは、イエスはそのような恐ろしい絶望の中でなお「わが神、わが神、」と祈っていることです。このイエスによって、わたしたちはどんな絶望的な状態の中でも神に結ばれている、神の愛が注がれていることを信じることが出来るのです。そういう神の愛が、わたしたちの祈りの前提にある、根底にあることをわたしたちは知るべきです。 もう一つ例を申し上げます。アシジのフランシスという人の祈りです。フランシスは有名な人で、特に「平和の祈り」が有名です。かつてイギリスのサッチャー首相が就任して、首相官邸のダウンズ10番街で記者会見をした時に、記者達から「今の心境はいかがですか」と聞かれた時に、サッチャー氏は、この方は非常に熱心なメソジストの信者であると言われていますが、フランシスの「平和の祈り」をその答えとして記者達に述べました。その祈りは 「主よ、わたしを平和の使者としてください。 わたしは日本にサッチャーさんのような首相が出現するのはいつの日かなぁと思っておりますが、それは決して遠い将来のことではない、そう思って女子教育にあたっているわけでございます(笑)。今の世の中のマスコミや新聞などを見ると希望がないですね。しかし、わたしはこの日本にも、イエス・キリストの福音によって望みが与えられている、いつの日か日本にもサッチャーさんのようなクリスチャンの首相がうまれる、それは遠い将来ではない、そう信じている一人でございます。 さて、このフランシスの最初の弟子に、ベルナルディーノという人がおりました。ベルナルディーノはフランシスがどんな人物であるか知りたいと思って、自分の家に招いて、ご馳走して、彼の話を聞いたのです。食事が終わって、話も終わって、ベルナルディーノは彼を寝室に案内して、「おやすみなさい」と言ったのですけれども、どういう人物か知りたいと思って、そぉっと隙間からフランシスはどんなふうにしているかと覗き見をしていたのです。ところが、フランシスはベッドの傍らにひざまずいて祈りを始めます。彼は「主よ」と言って長い沈黙を続け、しばらくしてまた「主よ」と言って沈黙を続ける。そしてハラハラと涙を流して、また「主よ」とイエスを呼んで呼び続け、その祈りはいつ終わるともなく続いて夜明けにまで及んだというのです。 ベルナルディーノはその祈るフランシスに感動して、彼の最初の弟子になるのです。思うにフランシスは、主イエスがいかに自分を深く愛しているかということを受け止めて一晩中イエスの名を呼び続けたのだと思います。フランシスの祈りはただ「主よ」と言うだけで他に何も言っていませんけれども、ベルナルディーノを感動させた。彼の弟子になる決心を促す祈りとなりました。 このお話は、祈りの本質は言葉ではない、イエス様も異邦人のようにくどくどと祈るなと、彼らは祈りが長いことによってその効き目があると思っている、しかしそうではないということを先程のマタイの個所で言っていますけれども、祈りの本質は言葉ではない、神の愛、キリストの愛を受け入れること、それが祈りなのだということをあらわしています。 祈りは神の愛を受け入れることなのです。「お祈りをしなさい」「祈りましょう」というと、わたしたちは自分の方で何かあれこれと神様に言わなければならないように思いがちです。しかし今日わたしが強調したいことは、祈りの本質は神の愛を受け入れることにある。神がわたしたちをこよなく愛してくださって、その独り子イエス・キリストを十字架にかけてまでわたしを愛してくださっている。わたしが願う前に、必要なものはすべてご存じでいらっしゃるほどに神は愛にいます。そのことを受け入れることが祈りであると言うことができる。こういうことをわたしは申し上げたいのであります。 イエスによって祈りの本質を学んできました。このように考えるならば、祈ることを難しいことだと考える必要がないことがおわかりいただけたと思うのです。 ある祈りの本を読んでいましたら、祈りに最も近い人間の姿は赤ん坊が寝ている姿だというのです。母の胸の中ですやすやと眠っている赤ちゃんの姿、そう書いてあるのです。母親に抱かれて安心しきって眠っているみどり児の姿、それが祈りの姿に最も近いというのです。つまり、神が愛にいますことをそのように受け止めていることが出来るならば、それはまさに祈りだと言うことが出来ると思います。 わたしはキリスト教の女子校の礼拝で時々お話をしますけれども、なんと寝ている人がいるのです。目の前で寝ている。私は短腹ですから何か言いたくなるのですけれども、この話を聞いて「あぁそうか、眠っている姿が…」と少し思い直しているのです(笑)。高校生と赤ん坊とはちょっと違うかも知れませんが。赤ん坊が母親の胸に抱かれて安心しきって眠っているような状態のように、神の愛を素直に受け入れる、それが祈りだというのです。わたしたちが目指す祈りとはそういうものなのです。 わたしたちはまことに不信仰で、祈ることも怠りがちな日々を送っている者ですけれども、どうかこの祈りの本質を学ぶ修養会、そしてその最初のこの礼拝を通して「主よ、祈ることを教えてください」と願い、祈りの本質である父なる神の愛を幼な子のように受け入れることによって、一人一人がフランシスの平和の祈りにあるように「憎しみのあるところに愛を蒔き、不和のあるところに執り成しを、疑いのあるところに信仰を」と祈って、隣人のために、一人一人が平和の使者となれるように祈ろうではありませんか。 |
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