| 2005年1月9日 公現後第1主日礼拝 「神の国はいつ来るのか」 ルカによる福音書17章20-30節 |
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「神の国はいつ来るのか」とファリサイ派の人々はイエスに尋ねた。イエスは彼らに「神の国は見える形では来ない。…あなた方の間にある」と答えられた。続いてイエスは弟子たちに「あなたがたが、人の子の日を一日だけでもみたいと望む時が来る。しかし、みることはないだろう」と話された。人の子の日というのはダニエル書に「見よ、人の子のような者が天の雲に乗り…」と記されているように、此の世の終わりに神の国が完全な形で実現する時のことである。このように、イエスは神の国の到来について現在と将来の二つの話をなさった。実はこの背後に重大なことが隠されていた。 K イエスは人々の真ん中にご自身がおられる、ということを「神の国はあなたがたの間にある」といわれた。「見える形では来ない」というのは、神の国がユダヤ民族がローマから独立して国家をつくるというようなことではない、ということである。では、イエスがこの世に来られたことが見えない神の国の到来であるならば、この世の終わりの「人の子の日」とはどのような関係にあるのか。この関係を理解するために、イエスは驚くべきことをお話しになった。それは「人の子は、まず必ず、多くの苦しみを受ける」と言われたのである。なにが「まず必ず」なのかというと、イエスは旧約聖書に預言された「苦難のメシヤ」であるということなのである。これは神の国に関して非常に重大なことでのちほど詳しくお話ししたい。 L 神の国に関して聖書が告げることは、神の国は人間の努力や計画で実現するものではないということである。ゆえに「さあ神の国に一緒に行こう」とか「一緒に神の国を建設しよう」などというべきではない。神の国に関して人間の出来ることは、神の国の到来を「待つ」ことだけなのである。ところで「待つ」ということについて聖書には、復活のイエスが天に上げられたときと同じ有様でまたおいでになると記されている。われわれが「待つ」根拠がここにある。つまり「待つ」というのは天を見上げてぼんやりとしていることでなく、再臨のキリストを待ち望むことにほかならない。 M さて、イエスがガリラヤで伝道を開始された時、「神の国は近づいた」と言われて、ガリラヤの漁師たちを弟子としてお招きになった。実は、神の国の奥義はこの弟子の招集物語の中に隠されている。すなわち、イエスが「わたしについて来なさい」とペテロたちに言われた時、この言葉だけが無条件で断言的に言われているだけなのである。これは大変なことである。もし、われわれが仕事をしている場合、通りがかりの見知らぬ人から「わたしについて来い」と言われたらどうするだろう。驚いて「エッそれはどういうことですか」と聞き返すだろう。あるいは「今仕事中です。邪魔しないでください。」と言うかもしれない。とにかくとんでもないことである。それなのにペトロたちは直ぐにイエスのあとについて行った。こういうことはわれわれの日常性の中では起こり得ない。その起こり得ないことがイエスとペトロたちの間で起こったということはわれわれの日常性の範囲では起こり得ないことが起こったということである。では何が起こったのか。それが神の国の到来なのである。つまり、神の国の到来というのは、日常性の範囲では起こり得ないことが、日常性の只中でおこることなのである。 N 日常性の範囲で起こり得ないことが起こるというのはどういうことかというと、そこに利害打算を越えた純粋な人格関係が成立したということなのである。卑近な例で言うと、桃太郎と犬たちの間には「キビ団子」が介在している。この「キビ団子」は封建社会なら俸禄、近代なら賃金にあたる。主従関係や雇用関係でなくても、友人、恋人、夫婦、家族のような私的関係であっても、何らかの形で利害打算がある。自己中心の人間性がなくならない限り、純粋な人格関係はこの世では成立しない。しかし、イエスと弟子たちの間には「キビ団子」はない。無条件で断言的な呼びかけに、無条件で応じている。このようなことはこの世ではあり得ないことである。そのあり得ないことが起こっているのは、そこに「神の国の到来」があるからである。イエスが「神の国はあなたがたの間にある」と言われたのは、イエスが利害打算を伴わない純粋な人格関係を成立させるためにメシヤとしてこの世に来られたということである。 O さらに重大なことは、イエスがメシヤとして来られて、何をなさったかということである。すなわち、イエスはそのために十字架の道を歩まれて、ついに十字架の死をとげられた。つまり「苦難のメシヤ」としてその使命を果たされたのである。ゆえに、神の国の到来には「まず必ず」人の子が苦しみを受けなければならなかった。そしてイエスは三日目に復活し、父なる神のもとに帰ったが、やがて「雲に乗って」栄光と威厳のうちに再び地上に来られる。これがキリストの再臨である。このように「神の国の到来」が二度あるのは、イエスが「苦難のメシヤ」であることによるのである。 P さて、現在のわれわれはイエスが「苦難のメシヤ」として来られた時と、やがて完全な形で神の支配を実現するために再び来られる時の中間に置かれている。この中間の時のことを「教会の時」という。われわれはこの世において、見えない神の支配を信じる霊的共同体に属しているのである。ということは、この世において、イエスによって実現した純粋な人格関係、すなわち「愛」を柱として生活して行かなくてはならない。そして、霊的共同体に属してキリストの再臨の備えをしなくてはならない。イエスはそのことをノアとロトの例で話された。再臨の備えをすることは、ノアのように箱舟を作りそれに入ることである。この箱舟が教会である。教会を自分たちの生活の中心として生きる。それがノアの箱舟であり、ロトがソドムから出てゆくことなのである。 Q 「神の国はあなたがたの間にある」このように言われたイエスは、今日われわれに「わたしについて来なさい」と言われている。どうかここに集う者が心を合わせて「来たらせたまえ。主よ、み国を」と讃美しつつ祈ろうではないか。 |
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