2005年6月12日 花の日・こどもの日 主日礼拝
「ここに少年がいます」
ヨハネによる福音書6章1-14節

小林 宏(こばやし ひろし)
横浜共立学園理事長
       
1924年 東京に生まれる
1941年 銀座教会にて今井三郎牧師より受洗
1950年 日本基督教神学専門学校
(現東京神学大学)卒業
1953年 名古屋中央教会牧師
1958年 横須賀学院宗教主任
1961年 基督教学校教育同盟主事
1991年 関西学院高中部長
2001年 横浜共立学園理事長

 イエスが5つのパンと2匹の魚を手にとって、感謝の祈りを唱え、これをみなに分け与えたところ、五千人が満腹して、その余りが12の籠に一杯になった。この奇跡はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書に記されている奇跡であるが、ヨハネによる福音書に、5つのパンと2匹の魚を持っていたのはだれであったかについて次のように記されている。すなわち、十二弟子の一人であるアンデレが、パンと魚を持っている少年を見つけ、「ここに少年がいます。」とイエスに伝えているのである。

 このパンを持っていた少年はなぜそこにいたのか。イエスについて群衆と一緒にきていたのか。それとも誰かと一緒にきたのか。ヨハネはそのことについて何もいっていない。また、かれはなぜ、パンと魚をもっていたのか。5つのパンと2匹の魚は、かれの数日分の食料なのか。あるいは、数人分の食べ物なのか。これもわからない。そして、アンデレがどうしてこの少年がパンと魚を持っていることを知ったのか。これもわかっていない。わかっていることは、イエスがこの少年の持っていた5つのパンと2匹の魚を受け取って、感謝の祈りを唱えた後、みなに分け与えたことである。アンデレは少年が持っていたパンと魚を見て「こんな大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」といった。これは大人の常識である。もし、この少年がアンデレと同じ考えであったら、自分の持っていたわずかな食べ物を差し出さなかったであろう。しかし、この少年は、イエスが人々を養うために、パンを求めておられることを察して、何のためらいもなく、さっと、持っていたパンと魚をイエスに差し出した。イエスは荒れ野で悪魔から石をパンにすることを勧められたが、これをきっぱり断っている。イエスは、神から「神の子」といわれたけれども、自分が空腹になったからといって、自分のために石をパンにすることを拒絶し、「人はパンだけで生きるものではなく、神の言葉によって生きる」といわれたのである。しかし、この少年が差し出したパンを、喜んでご自分の手に受け取り、感謝の祈りを唱えて人々に配ると、五千人が満腹するという驚くべき奇跡になった。

 さて、イエスは、人々に分け与えるために、パンと魚を少年から受け取って感謝の祈りを唱えた。このことは、この少年が差し出したパンと魚を、人々に対する神からの贈物として受け取られておられるわけである。それは、当然、この少年の行為が神の祝福を受けることをあらわしている。つまり、この少年が差し出したパンと魚を、イエスが受け取って感謝の祈りを唱えてみなに配ったことにより、この奇跡が起こったということである。奇跡とは神がこの世界を支配されている「しるし」である。ヨハネはイエスがなさった奇跡を「しるし」と呼んでいる。ヨハネによれば、イエスのなさった最初の「しるし」はカナで行われた結婚式の祝いの席で、水をぶどう酒に変えた奇跡であった。しかし、神の国の「しるし」は、水をぶどう酒に変えたり、病人を癒したりするだけでなく、アンデレがペトロと共に「わたしについて来なさい」とイエスに言われて、ただちに、イエスについていったことも、神の国が始まったという「しるし」であった。ゆえに、この少年がイエスにパンと魚を差し出したことも、それと同じように、神の国の「しるし」がそこにあらわれているのである。つまり、少年がパンを差し出したことからこの奇跡は始まっているのである。

 6月第2日曜はこどもの日、または、花の日である。いまから約150年前、アメリカで始まったこの教会の行事は、わが国の教会でも明治の中頃から守られてきた。銀座教会も古くから守られていて、わたしがまだ子どもで、銀座教会の日曜学校の生徒だったとき、聖路加病院に花を持ってお見舞いに行き、ご病人から「坊ちゃんありがとう」といわれて、坊ちゃんとは自分のことらしい、とびっくりしたことを覚えている。

 さて、聖書を注意深く読むと、五千人が食べたのは「5つの大麦のパン」とわざわざ記されているが、パンが増えたとか、みなが隠し持っていたパンが差し出されたとか、そんなことは何も書いてない。そこにこの奇跡の秘密がある。その秘密とは、この少年が五つの大麦のパンを差し出したことを指している。すなわち、この奇跡は、子どもの小さな信仰が、イエスによって、神の国の「しるし」となることを悟らせるものなのである。わたしたちは、ともすると、信仰を忘れて、ただ常識的に物事を判断し、簡単に諦めたり、がっかりしたり、落ち込んだりする。しかし、教会に集うわたしたちは、イエスを信じる信仰によって勇気をもって生きてゆくことが大切なのである。わたしたちは、どんなに小さく弱く見えても、イエスが共にいてくださるなら、それが神の国の「しるし」になることを信じなければならないのである。

 英国の詩人ワーズワースの有名な作品に、「虹」(The Rainbow)という詩がある。そのなかで、かれは「子どもは大人の父なのだ」(The Child is father of the Man!)と歌っている。わたしたちは、イエスにパンと魚を差し出したこの少年のように、自分の持っているすべてのものを、何のためらいもなく、さっと、イエスに差し出す信仰が与えられるように祈ろうではないか。わたしたちは、若いからといって、また、年取ったからといって、また、どんなことが起こっても、人生を投げ出すようなことをしてはならない。なぜなら、イエスはいつもわたしたちと共におられるからである。ということは、イエスがわたしたちについてきてくださるのでなく、わたしたちが、いつも、そして、どこまでも、イエスについてゆくことなのである。イエスは、わたしたちのために十字架にかかり、わたしたちのために復活され、わたしたちといつも共にいてくださるのである。そのイエスが子どもたちを祝福して「神の国はこのようなものたちのものである」といわれたことを覚えて、今日の子どもの日に、神を賛美する歌を、声を合わせて共に歌おうではないか。




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