2000年7月23日 創立110周年記念説教
「一筋の道に生きる」
ヨハネによる福音書 14章1-14

近藤 勝彦(こんどう かつひこ)
東京神学大学教授
1943年 東京に生まれる。
東京大学、東京神学大学、
チュービンゲン大学に学ぶ。
神学博士。
 銀座教会は本日110周年を迎えました。多くの時代の変化、社会の混乱、信仰の試練の中を歩み続けてきました。今朝、御言葉の冒頭に、「心を騒がせるな」とあります。心を騒がせざるを得ないさまざまな時を教会は歩んできたわけです。教会の中に生きる一人一人の人生についてもそうでしょう。

 主イエスは弟子たちにまず「心を騒がせるな」と言われます。弟子たちは、師であり、指導者である主イエスを間もなく失い、この世の中に取り残されようとしています。彼らの状態は寄る辺なく、不安であり、孤独です。同じ14章27節には「心を騒がせるな。おびえるな」ともあります。彼らには「恐怖心」さえありました。主イエスを失う弟子の姿は、この世にある私たちの姿であり、また世に放り出されているすべての人々の姿でもあります。私たちもしばしば「心を騒がせ」、「おびえ」、見通しの立たない中に立ち尽くします。

 しかしその時こそ、聖書は「福音」を語ります。「神を信じなさい」といいます。他のものではありません。「自分を信じよ」でもありません。それでは解決にならないのです。本当に人間の心が動揺し、人生の根本が揺さぶられるとき、「神を信じる」道だけが救いです。私たちの動揺の根本は神から離れていることだからです。心騒がせているとき、脅えている時、あなたは神を信頼していますか。教会はこれを問います。そして伝えます。他のことを伝えても、救いにならないのです。「心を騒がせない」ということは、どんなときにも、どんな悩み、どんな窮状にも「神に一切の信頼を置く」、そのことを止めない、あらためてそこに立ち返る、そこから安らぎを得、慰めを得、生きる勇気を与えられることのです。そうでなければ解決にならない現実があるのです。

 どのようにして「神を信じる」のでしょうか。キリストを信じ、キリストを道とすることによってです。主イエスは、「わたしをも信じなさい」と言います。この関連で主イエスのよく知られた言葉が語られました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。神を信じることは、主イエスを信じることによるのです。主イエスを信じることが、そのまま父である神を知る唯一の道です。命に導く真理があり、真実な命があるのです。それは、父のもとに行くことですが、いますでにその父なる神を主イエスによって知り、見ている。いますでに真理と命に与っている。主イエスは「唯一の道」なのです。キリストによって父なる神のもとにいく、いな、いますでにキリストによって父なる神を知り、神を見ている。それが主の弟子たちであり、それが教会です。

「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」とあります。現代の社会は価値の多元的な社会です。それぞれの良心の自由に従い、それぞれに信じるところを行くことのできる社会です。宗教的にも寛容な社会です。そうあるべきです。しかし同時に、どの道を通っても「同じ高嶺の月を見るかな」とは言えないのです。聖書は、主イエスを通ってでなければ、主イエスの父である神のもとに行くことはできないと語ります。他のものには行くでしょうが、主イエスの父である神には行かないのです。多元的な社会と宗教的良心を尊重しつつ、この聖書的な信仰、イエスによらなければ神のみもとに行くことはできないことを教会は確信するのです。ですから謙遜に、しかし確信をもって主イエスの御言葉に聞き、主イエスを信じ、主イエスの中におられる神を伝えたいと思います。

 なぜ「主イエスを通らなければ」と言うのでしょうか。主イエスが父の内にあり、父なる神が主イエスの内におられるからです。主イエスが語ったのは神が語ったのです。主イエスが愛されたのは、神が愛されたのです。主イエスの中に神が働いています。ですから「主イエスを通ることなしに」「父」のもとに行くことはできません。現に世にあるキリスト教には欠けたところがあるかもしれません。現に世にある教会には、銀座教会も含めて、不十分な点があるでしょう。しかし主イエスは、確実です。主イエスによる以外に神のもとには行けないのです。主イエスの内に父がおられ、この主イエスが父を知らせ、神のものである真理と命に導くのです。主イエスこそただ一つの道。教会はこの一筋の道に生きます。

 マタイ受難曲の中に「イエスの御腕の中に留まれ」と歌い続ける箇所があります。
「見よ、イエスは御手を広げておられる。その御手で私たちをしっかり掴んでくださろうとして。来なさい」。「どこへですか」「イエスの御腕の中にです。そこに救いを求め、憐れみを受けなさい」。「ここで生き、ここで死に、ここで憩いなさい。見捨てられたひな鳥たちよ、留まりなさい。」「どこにですか」「イエスの御腕の中にです」。イエスの御腕の中に留まり、そこで生き、そこで死ぬというのです。イエスに留まるということは、イエス一筋に生きることでしょう。イエスを道としつづけること、それは御言葉に留まり続けることです。御言葉を聞いて生き、憐れみを受け、憩うのです。そして死ぬのもそこで死ぬというのです。

 私自身が銀座教会を知るのは最近の十数年に過ぎません。しかしこの教会の良さがあります。それは、「御言葉に聞こうとしている」ということです。御言葉に支えられようとしているということです。そして御言葉に支えられようとする教会を御言葉は支え続けます。御言葉に聞き、御言葉に留まる礼拝、それが、主イエスを一筋の道として生きる教会ではないでしょうか。それこそ父を知っており、すでに父を見ている教会です。110周年に当って、主の御言葉が私たちを支え、生かし、慰め、用いてくださったことを感謝し、21世紀もこの一筋道に生きる決意をもって、神を讃美したいと思います。



All Rights Reserved, Copyright Ginza Church.1999-2000.