| 2007年4月15日 復活節第2主日礼拝 「信じない者とならないで、信じる者になりなさい」 ヨハネによる福音書20章24-31節 |
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キリスト教信仰は、復活した主イエスを信じます。しかしどうしてそれが信じられるのでしょうか。どの福音書にも主イエスの復活を信じられなかった弟子たちのことが記されています。ヨハネによる福音書でもそうで、トマスは十二弟子の一人でありながら、復活の主イエスを信じることができませんでした。そのトマスが復活の主の信仰に導かれた様子が、ここに記されています。私たちも信仰の確信を失うことがあります。信仰を求めている人もいるでしょう。トマスがどのように復活の主の信仰に導かれたかということは、私たち自身にとっても重大なことではないでしょうか。 信仰の群の中に身を置き続ける トマスは、他の弟子たちから「わたしたちは主を見た」と聞かされました。私たちと同様、復活のメッセージを聞く立場に立ったわけです。しかし信じられません。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、またこの手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」というのです。信じられないトマスは、絶望や挫折からも立ち直れません。 しかしトマスは、それでも主の弟子たちの群れの中に居続けました。信じたい、しかし信じられない。そういうときに、信仰の群れの中に居続けることは大事なことです。信仰が曖昧になり、確信を失った場合も同じです。そういう人もまた群れの中に居続けるべきです。信仰がはっきりし、確信をもっている人だけが教会にいるのではありません。 「八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた」(二六節)。八日の後は、主の復活から一回りの週の後、やはり週の初めの日曜日です。福音書の記述は復活の主との出会いは、日曜日の群の中の出来事と言います。主は「あなたがたに平和があるように」と言ってくださいます。今日の礼拝も復活の主が、私たちの真ん中に立ち、そう言ってくださる。そして信じられない者に声をかけてくださいます。そう信じるべきです。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。またあなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。この主イエスに対し、トマスは答えざるを得ませんでした。「わたしの主、わたしの神よ」。こうしてトマスは復活の主の信仰に導かれたというのです。 何がトマスを導いたのか 何がトマスを復活の主の信仰に導いたのでしょうか。トマスが実際に主イエスの手の釘跡 に指を入れ、そのわき腹の傷跡に手を伸ばしたかどうか聖書は記していません。トマスにとってそんなことはどうでもよくなったのではないでしょうか。もっと別のことがトマスの心を打ちました。トマスは何に打たれたのでしょうか。釘跡よりもっと確かな「主イエスの真実」がトマスを打ちました。 その方は、指をここにあて、手を伸ばしてわたしのわき腹に入れなさいと言われました。そして十字架にかかった主イエスご自身であることを知りなさいというのです。その言葉は、その方がトマスをよく知っていることを示しています。私たちの疑いの言葉を主はご存知です。トマスは疑っている自分が、その不信仰にもかかわらず、ゆるされていると知ったはずです。「主の傷口に触る」ことは、マグダラのマリアには許されないことでした。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから」(二○・一七)と言われています。しかし主はトマスには「指を入れよ、手を差し伸べよ」と言われます。主は、トマスの疑いを知り、それを赦し、それを克服できるように触ることを許されました。そして「信じる者になるように」と言います。 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とは、主の命令でしょうか。これは「主の願い」とも受け取れるのではないでしょうか。パウロは、「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」(?コリント五・二○)と書いています。「代わって願う」というのは、まず主イエスご自身が願っているからではないでしょうか。トマスはキリストの願いに打たれたに違いありません。「キリストの真実」に打たれたのです。 主イエスは信仰を重視しておられる 復活の主イエスは、私たちが信じる者になるように願ってくださっています。トマスと共に私たちも主の願いに打たれるべきです。信じることがそんなに重大なのでしょうか。そうです。そこにすべてがかかっています。福音書が書かれたのはそのためだとヨハネは言います。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるため」です。それを信じなければ、福音書が書かれたのは無駄になります。信じることをしないなら、神が御子を与えたことも無駄になります。神が御子を与えたのは、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」(ヨハネ三・一六)と言われています。主が十字架にかかり、そして甦られたのも、あなたがたの主となるためです。だから「あなたがたが信じて、イエスの名により命を受けるため」です。そのためには信じることがなければなりません。「信じて、イエスの名により」とは「信じて、イエスに一つに結ばれて」ということです。主イエスを信じるとは、心のうちにイエスを「わが主、わが神」と呼ぶことです。そして信頼し、委ねること、緊密な関係に結ばれ、主のものとされることです。信じるとは「わが主よ、わが神よ」と呼びかけることです。呼びかけてみてください。そのときあなたは「命」を受けています。主イエスが与えてくださる「平和」や「喜び」もそこにあります。 |
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