2007年7月29日 第43回教会全体修養会
「なぜ祈るか、どう祈るか」
ルカによる福音書18章9-14節

近藤 勝彦(こんどう かつひこ)
東京神学大学教授
1943年 東京に生まれる。
東京大学、東京神学大学、
チュービンゲン大学に学ぶ。
東京神学大学教授、神学博士。

礼拝の後、教会の修養会で「祈り」について学ぶことになっております。この礼拝でも、主イエスが祈りについてお語りになった聖書の箇所に導かれながら、御言葉を聞いて、神様の御名を崇めたいと思います。

 

主イエスの祈りのたとえ

ルカによる福音書一八章九節以下で、主イエスはたとえを話されました。「二人の人が祈るために神殿に上った」。一人はファリサイ派の人、もう一人は徴税人、そういうセッティングで二人の祈りが取り上げられています。聖書を親しく読んでいますとわかることですが、ファリサイ派というのは厳しく自己を律する厳格な宗教者でした。少数で、しかも影響力の強い、当時のユダヤ社会で最も指導的なグループであったことがわかります。あのパウロもファリサイ派の出身です。知的な意味でもリーダーの階層です。一方の徴税人は、主イエスが彼らを招いて一緒に食事をしましたとき非難囂々であったわけで、徴税人は当時の社会で申しますと、率直に言ってつまはじき者でした。当時は、ローマ帝国の支配下ですから、税を取り立てて、支配している統治者にその税を持っていくわけです。民族感情からいっても人々から嫌われる対象だったことが分かると思います。しかも不正な取り立てをしているケースが多かったようです。今朝の記事の少し後では、あのザアカイの話があって「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」という言い方をザアカイがしています。不正な取り立てが疑われる、律法にも違反していると見られる人々であったわけです。ですから主イエスは当時の社会の中で最も対照的なグループから例を上げ、祈りはどうあるのかをお語りになり、その根本にある祈りを聞く神について語られているわけです。そこがポイントですね。ファリサイ派の人は立って、心の中で「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と祈ったといいます。奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でない、つまり十戒を守っているということです。十戒を守れない徴税人とは対照的です。さらに週に二度の断食をしている。律法は特定の日に断食することを定めていますが、週に二度の断食はある意味で律法以上です。そして律法に記されている全収入の十分の一の献げ物、それを果たしているというのです。模範的な信仰生活、驚くべき宗教的生活をしていると言ってもよいでしょう。これに対して、徴税人は遠くに立つしかなかったと言います。神殿の中、おそらく異邦人の庭までしか来なかったのではないかとも解釈されます。ユダヤ人なら入れる、その先まで入ろうとしなかった。そして「目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」言いました。胸というのは、その人の人格の中心を指す言葉です。胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と、祈りはその短いひとことだったというのです。この徴税人は文字通り罪の者であったに違いありません。当時の社会通念からしても褒められるべき生活をしていない、見習うべき生活ではないのです。神の前で祈るにも祈れない状態に身を置いていたというわけです。どちらが人間として優れているかは誰の目にも明らかです。ですから、このたとえの最後に出てくる一四節の主イエスのお言葉は驚くべき言葉でした。尋常でないことを主イエスは言われたのです。「言っておくが」と始まります。聖書の中で「まことにあなたがたに言っておく」「言っておくが」という場合、「私は言う」という主イエスご自身の言葉の響きがあります。後の人々が工夫して付け加えた言い方ではなく、主ご自身が言われた言葉として聞いてよい、そういう聖書の箇所です。主イエスは「言っておくが」と言い、「義とされて家に帰ったのは、この人(つまり徴税人ですね)であって、あのファリサイ派の人ではない」と言ったわけです。大逆転の言葉を語ったことになります。聞き逃すことのできる言葉ではありません。どういう意味なのか、それを考えなければなりません。この主の言葉の意味を知り、私達の信仰生活をたてなければならない重大な言葉だと思います。ファリサイ派の人のいったい何が悪く、徴税人のどこが「義とされる」のか、そして私達はどう祈ったらよいのでしょうか。

 

祈りは神との対話

新約聖書の祈りについて多くの人が研究していますが、その中の一人、優れた新約学者オスカー・クルマンは、このたとえ話の二人の祈りの違いについてこう語りました。「すべての祈りの本質は、神を相手とする対話です。それから逸らせる意図が紛れ込めば、祈りは世俗化し、それでも神と対話しているように見せかければ、神を冒涜する行為になります」。神を相手としてなされる対話が祈りの本質だというのです。もし神様との対話ということから逸れていくようなモチーフが入り込むと、その祈りは世俗化する。それでも神と対話しているようなフリをすれば、それはただ世俗的になるだけではなく、神を冒涜しているというのです。そしてファリサイ派の祈りは、神様を相手としてなされる対話から逸れて「自分と他の人だけを見ている、神と語っていない。自分の心を拝んでいるのと同じだ」と、神様を見ていない、そこが問題だと、この新約学者は語りました。これは聖書の正しい理解だと私は思います。それに対して徴税人の祈りについては「自分の罪を知り、恵みを願いつつ、神との結合を求めて」いると説明しています。立派な宗教的生活、道徳的に優れ、社会的にもリーダーとしての生活をもったファリサイ派の人の祈りは、実は神との対話になっていません。徴税人はその人間もその生活も蔑まれるような生活でした。しかし彼は、神の前に出られない状態の中で、神の憐れみを求め、神と結ばれることを願い、祈っているわけです。

実際、ファリサイ派の行為がどれほど立派でその生活が模範的であったとしても、「自分はこれだけの事をした」という、これは事業報告です。本当の祈りではない。私達は祈りの中で自分の事業報告をすべきではありません。自分の功績・業績・成し遂げた手柄話を頼みとして祈る、それは神を頼みとしないということです。神の前で、祈りの中で、実は神を無視していることになります。ただこれは私達自身、自分の生活を省みて自分の胸に手を当てて考えてみますと、祈りの中で事業報告をすることはないとしても、あるとき祈りやすい状態にいると感じる時がなくはありません。それは、自分の功績を頼みとしているのではないでしょうか。私達は「あの人のような者でないことを感謝します」と祈ることはあり得ないと思います。これは真実神の恵みに打たれた感謝ではないわけです。ファリサイ派の祈りは自信に満ちています。その自信は神の赦しを求めていません。そして他者に対する愛を失くしています。私達がなすべき祈りはこれではないということです。しかしそれでは私達は、主イエスが言われる徴税人の祈りを祈ることができるでしょうか。彼は胸を叩いて「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈るだけでした。そこに彼の祈りは極まっていました。このひとことを祈ればそれで全てだった、後は言葉が出なかったのです。この祈りを、私達は心から祈ることができるでしょうか。安易にできると言うべきではないでしょう。それが「できる」ためには、相当の理由・根拠がなければならないと思います。

なぜキリスト教の伝道が難しいかというと、福音を宣べ伝える時に「私達は罪人です」と言うので、特に日本においては嫌がられると言われることがあります。日本社会の中にそういう反応は多いと思います。誰も自分が罪人だと言いたくない、言えない、思いたくない。まして人から「あなたは罪人だ」などと言われたくないのです。「罪人の私」と言うことは、自分を傷つける自傷行為ではないかと思われるわけです。本当はそうではないのですが、そう思われる。そして「もっと自信を持ちなさい」「自己評価が低過ぎるのはよくない」「自分を高く評価して、確信を持って生きる方が成功する」。そういう言い方が一般になされます。それが全部間違いだとは言えません。しかし、それは結局ファリサイ派の人のように自己評価の高い事業報告をせよ、それができるように努力せよということでしょうか。もしそうなら「心の底では神を信じることを止めよ」ということになります。ファリサイ派のケースで言えば「他者には愛のない人になれ」ということにもなるのではないでしょうか。いったい、祈るということは自傷行為なのでしょうか。むしろ本当に祈ることから生まれてくるのは、神に赦された確信、神の憐れみに生かされた確信、神から来る自信です。教会の言い方で申しますと、「救いの確かさ」です。救いの確かさによって生きる、その力強さがあるのです。

 

神に愛されているから

自分自身の祈りの生活を考え反省してみて、時折、祈ることに抵抗を感じている自分がいると感じることがあります。平たく言いますと、祈るのに気が引ける、祈ることが喜びにならない、祈りに対して消極的になる、祈らずに過ごしたくなります。聖書では「絶えず祈りなさい」と言われていますが、祈ることに抵抗を覚える時が実際にあります。ゆとりがある時は祈れる。しかし自分に悔やまれることが起こり、良心にやましいことがあると祈れなくなる。そういう心境が、私自身あることに気づきます。おそらく皆様にも、そういう経験があるのではないでしょうか。しかし、積極的な事業報告ができる時には喜んで祈り、そうでなくなったら祈りたくない、それは私達の中にファリサイ派の要素があるということではないでしょうか。このことは認めないわけにいきません。自分自身が、このファリサイ派だということです。いったい、主イエスのたとえにある徴税人はなぜ祈れたのでしょうか。この祈りを、どうしたら私達も祈れるのでしょうか。そして主イエスはなぜ、徴税人の祈りを「義とされた」と言われたのでしょうか。

「義とされた」と主イエスが言われたのは、徴税人の祈りの言葉が人間の業として合格だというのではありません。もしそれが合格点に達している教科書的なことを言ったのであれば、ファリサイ派はたちまち「私は一日に何度も『罪人のわたしを憐れんでください』と祈っています」と、ぬけぬけと言い出すでしょう。主イエスは人間の業としてそのように祈れと言ったのではありません。重大なのは祈りの中に示されている信仰です。業による義ではなく、徴税人の祈りに示されている信仰を「義とされた」と主イエスは言われたのです。そしてその信仰を守ってくださっています。その信仰とは何でしょうか。それは、神が憐れみの神だという信仰です。これが重大です。説教題の「なぜ祈るか」は、今朝の御言葉から申しますと、祈れる理由は神が憐れみの神でいらっしゃるからです。だから祈れるのです。「どう祈るか」も、そこから生まれてくると思います。徴税人は「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈りました。なぜそう祈れたかというと、徴税人は、神が憐れみの神であることを信じているからです。憐れみの神がいなければ、そのように祈ることはできなかったでしょう。そして彼は義とされて家に帰りました。神は罪人を赦し、その罪人を義とし、新しく造り変えて、神との和解に入れ、その生活の場に帰すのです。そういう神がおられる、神が憐れみの神としておられるのだと、主イエスはおっしゃっているのです。

本当の祈りは神との対話です。神様と語り合う、神様に心を打ち明けて対話する、それが本当の祈りです。しかし神との対話に、人間は誰も耐えることはできません。ファリサイ派がどんなに律法を守っていても、彼もまた罪人です。徴税人が罪人であることは誰の目にも明らかですが、ファリサイ派もまた同じ罪人であることは、人々の目は誤魔化せても、神の目には明らかでしょう。神との対話に、人間は誰も本当は耐えられません。耐えられるのは、ただ神が憐れみの神、慈しみの神であり、罪の者を赦し、和解の中に入れて下さる神だからです。新しく造り変えて、それぞれの場所に派遣して下さる。そういう神様であることを、主イエスは言葉と行為と全生涯をとおして示しておられます。その神と対話することが、私達にもできる、いな赦されているのです。今朝のこのたとえ話をとおしても、主イエスは、憐れみの神がおられると示して下さっています。そしてそれが、私達が祈ることのできる理由なのです。

日本でのキリスト教伝道が難しい、「人間は罪人」だということを誰も聞きたがらないと申しました。しかしそれは、この社会の弱さではないでしょうか。日本社会にとって重大なことは、憐れみの神、慈しみの神を知ることです。罪人を赦し、新しく造り変えて下さる神を知ることです。憐れみの神を知らなければ、古き国民性に留まり続けます。悔い改めたくない、罪人と言われたくない、心の向きを変えたくないということになります。心の向きを神に変えたくないのでは、変わらない日本人になります。人間は、神の憐れみの前で罪人であることを認め、祈りの中で神と交わりをもち、新しく造り変えられることが必要です。その時、「あの人のようでないことを感謝します」ではなく、神を愛し、他者を愛する愛が生まれるのではないでしょうか。「なぜ祈るか」、それは神が憐れみの神でいらっしゃるからです。「どう祈るか」、それは神を愛し、神に信頼し、他者を愛して祈る、新しく造り変えられながら祈るということです。修養会に参加する方も、参加できない方も、主イエスが教えて下さる祈りによって憐れみの神と深く交わり、それゆえに祈ることが好きになる、祈りの中で神を愛する者とされる、そのような祈りの生活を送るものに変えられたいと思います。そういう祈りの群れが生まれることが、日本社会にとって大きな出来事です。そのことを信じて、教会の歩みを進めて参りたいと思います。お祈りを致しましょう。

祈り

天の父なる神様、御言葉を与えられ、主イエスの言葉を聞くことができましたことを感謝致します。主は私達に対し、御言葉をとおし、全生涯をとおし、その十字架をとおして、あなたが憐れみの神であり慈しみと恵みに満ち給う神であることを知らせて下さいました。感謝を致します。どうぞ私達の罪を赦し、あなたとの和解に入れ、また、あなたによって新しい使命を与えられて、私達の生活の場所に出て行くことができますように導いて下さい。感謝して、ひとことの願い、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。



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