| 2008年1月20日 公現後第2主日 「忍耐は練達を生む」 ローマの信徒への手紙5章1-5節 |
|||||||
キリスト者の生活はどう歩まれるのでしょうか。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」とあります。この箇所を愛唱聖句とし、モットーとして、信仰の日々を生きている人もいるのではないでしょうか。しかしこの言葉は、何か勇ましすぎる気がして、敬遠して過ごしてきた方もおられるでしょう。御言葉を真正面から、信仰による霊的な理解によって、正しく受け止める必要があると思います。
人間的な勇ましさでなく 「練達」というと、自分を鍛錬し、練達の士になる、人生の達人になることのように考えられるかもしれません。しかしこの箇所がもし人間的な勇ましさを語っているとしたら、苦難から忍耐へ、忍耐から練達へ、そして練達から希望へという歩みは、いつかは人間の力の挫折によって、行き詰まるに違いありません。しかし御言葉は、人間が自分の力で自分を鍛錬するいわば「難行苦行」を語っているのではないでしょう。キリスト者の信仰生活は、「荒行」や「道場生活」の訓練とは違います。「練達の士」を鍛え、「艱難汝を玉にす」と言っているのではないでしょう。「業」によって「義」を勝ち取る律法宗教を語っているわけではありません。それでは「忍耐は練達を生む」とはどういう意味でしょうか。
キリスト者であること 聖書が語っている関連に目を向けましょう。三節は「そればかりでなく」という言葉から始まります。その前に語られているのは、「わたしたちは信仰によって義とされたのだから」という「義認の信仰」です。それで「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」と言われます。主イエス・キリストによって罪を赦され、キリストを信じ、キリストの義によって神の前に義とされ、神との親しい平和の交わりに入れられています。「今の恵みの中に」導き入れられているとも言われます。それが「クリスチャンとされた」ことです。クリスチャンは、恵みによって「神との生活」に生かされています。しかしそれですべて完成して終わりかというとそうでなく、さらに「神の栄光にあずかる希望」が与えられていると言われます。義とされ、神との平和にあり、恵みに入れられている。さらに「神の栄光」にあずかる希望を与えられ、それを誇りにしている。それが神に対して生きているクリスチャンと言われているのです。 その上で、そればかりでなく、「苦難をも誇りとする」。それがクリスチャンだと言うのです。信仰によって義とされ、神との平和を与えられ、恵みの中に入れられたクリスチャンです。しかし同時に自分自身と、あるいは人々との生活の中で「苦難」をも経験します。しかしその「苦難をも誇りとする」。それは、「苦難は忍耐を生み、忍耐は練達を生み、練達は希望を生む」ことを知っているからだというのです。根本にあるのは、クリスチャとされ、神との生活を与えられていることです。
「練達」の意味 この関連で「練達」について語られます。パウロはこの言葉(「ドキメー」)をよく使いました。コリントの信徒への手紙二では、この言葉は「試す」(二・九)と訳されています。「練達」と「試す」ではずいぶん違うように思えますが、火で精錬して吟味し、「試す」。それが「練達」と同じなのです。あるいは「結果」(九・一三)とも訳されています。フィリピの信徒への手紙では「確かな人物」(二・二二)です。つまり「練達」という言葉は、「試し、吟味する」こと、そして「吟味」されたその「結果」、そうして確証された「確かな性格」を意味しています。そこで「忍耐は練達を生む」というのは、修行や鍛錬のことではなく、忍耐の中で「本物の性格」が確証されることを意味しています。ちょうど火で精錬されて不純物が取り除かれ、純度の高い性質、そしてその強度が確認されるのと似ています。純度の中身は、「クリスチャンであること」です。クリスチャンであることの純度が高くなり、その確かさが忍耐の中で確証されます。本物のクリスチャンであること、そのしなやかさ、そして逞しさが確認されます。そのための苦難であり、忍耐だというのです。自分の力によって強く逞しい練達の士になるのではありません。そうでなく、クリスチャンの純度が高くなる、つまり本当にクリスチャンである、クリスチャンに徹していることです。恵みによって生かされて生きるのがキリスト者でしょう。自分が弱いときにこそ恵みによって強いのがキリスト者です。そのクリスチャンの本当の性格、純度の高さが確証されます。「信仰によって義とされ、神との平和を与えられ、今恵みの中に入れられ、神の栄光にあずかる希望を持っている」、このクリスチャンであることが高い純度で確証され、それが持っている強さ、優しさ、そして逞しさ、確かさが経験されます。「人生の達人」と言う言葉を使うなら、「本当のクリスチャン」として生かされることこそ、「人生の達人」と言ってよいのではないでしょうか。自分の野心や欲望の強さによって生きるのではありません。しかしまた他者を恐れ、自分の人生を恐れるのでもありません。神との平和を与えられ、恵みに入れられたこと、キリスト者とされたことの確かさ、キリスト者であることの平安と喜びを確信して生きるのです。キリスト者の確かさが忍耐のうちに姿を表わし、そこから希望が生まれます。
挫折なき歩み この歩みが挫折することはありません。この歩みは自力鍛錬の歩みではないからです。クリスチャンとされたことの確かさを経験する信仰の歩みです。神との平和、恵みの中に入れられている、つまりクリスチャンにされた、そのこと自体の確かさや力強さを経験するのです。別の力によって別の方向に向かって忍耐し、練達するのではありません。クリスチャンであることに徹し、「神に対して生き、神と共に生き」ます。それが私たちの歩みです。パウロはこの関連で「神の愛が聖霊によってわたしたちの心に注がれている」と語りました。キリスト者の生活は、神の愛を注がれ、それを信じて歩む生活です。神に愛されていることを本当に受け入れるなら、苦難から忍耐が生まれます。神に愛されていることを確かに受け入れるなら、忍耐からキリスト者とされた確かさが生まれるでしょう。そしてそこから希望が生まれることも間違いなく、真実に違いありません。英雄的な荒行に思われた歩みは、実はただ神に愛されていることを信じて、キリスト者とされたことに徹する歩みだったのです。この歩みこそが人生の達人です。この歩みを置いてほかに確かな歩みはありません。神の恵みに感謝してこの歩みを続けて行きたいと思います。
|
|||||||