| 2011年8月21日 聖霊降臨後第十主日礼拝 「見えない事実を確認する信仰」 ヘブライ人への手紙 11章1-7節 |
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「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(1節)とあります。私たちをとりまく世界は見えます。しかし見える世界は信仰の対象ではありません。見える世界は確かなようで、実は不確かです。争いがあり、事故や災害もあります。しかし「見えない神」の事実があって、それを信じることができれば、見える世界はむしろその見えない方によって造られたと分かると言うのです。信仰はこの見えない方に関わり、見える世界を生きる力になります。また、「神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならない」(6節)ともあります。「見えない事実」とは、「神が存在しておられること」、そして「神が御自分を求める者たちに報いてくださること」です。これを確かなことと信じるのが信仰です。 この手紙の11章は、全体を通して「見えない事実」を確認する信仰に生きた多くの証人を列挙しています。ここにもアベル、エノク、ノアの名が挙げられています。彼らに共通しているのは、「信仰によって生きた」ことでした。アベルは確かに死にましたが、「信仰によってまだ語っている」と言われ、エノクは「信仰によって、死を経験しないように天に移された」と言われ、ノアは洪水による死を信仰によって回避しました。見える世界は死に服しています。しかし死を越えて生きる信仰があると聖書は語ります。この箇所の直前10章38節に「わたしの正しい者は信仰によって生きる」と記されています。「見えない事実」、神がおられることと、その神が報いてくださることを確信する信仰は、死を越えて生かす力です。 「神は御自分を求める者たちに報いてくださる」とありました。信仰は「神ご自身」を求めます。目に見える健康や富を求めるのではありません。成功や人々の評判を求めるのでもありません。それらを求める場合にも、「神ご自身」のためです。健康のために健康を、あるいは富のために富を求めるとしたら、それは「偶像礼拝」です。偶像礼拝は神でないもの、結局は失われるものにしがみつくことです。見えない事実を確認し、神御自身を求めるのが信仰であり、この信仰が信じる者を生かします。「神の正しい者は信仰によって生きる」とある通りです。 「信仰とは望んでいる事柄を確信し」とあります。「確信する」という言葉は文字通りには「その下に立つ」という言葉です。信仰とはそれが信じ、希望している神とその真実、神の恵みの下に立つことです。それが「神に喜ばれる」と言われます。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」と言うのです。「神に近づく者は神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」。「神に近づく者」とは礼拝する者です。礼拝する者は、神が存在しておられることと、御自分を求める者たちに神が報いてくださることを信じている、そうでなければ礼拝にならないでしょう。その信仰が「神に喜ばれる」のです。私たちには信仰があってもなくても、同じに思えるとしても、神様の方ではそうでなく、神が喜ばれるのはその人の信仰です。信仰があることが決定的です。神の実在と愛を信じている、その下に立っている。それによって神に近づき礼拝するものとされている。それを神は喜んで下さいます。 神様は私たちに何かできることがあるのを喜ぶとは言われていません。立派な人柄とか、徳が高いとか、すぐれた手腕を持っていることを神は喜ぶと記されていません。どんなに徳の高い人でも、立派な人柄の人でも、「信仰がなければ、神に喜ばれることはできない」と記されています。「わたしの正しい者」は「その正しさによって生きる」と言われていないのです。そうでなく、「信仰によって」生きると言います。信仰というのは、あってもなくても同じではありません。人より多少善人であるか、尊敬を受けているか。そうしたことは結局、あってもなくても神の御前に変わりはないのです。逆に、どんなに小さく、弱い信仰であっても、信仰があることを神は喜んでくださいます。だから、見えない神の実在とその恵みの真実を確信する信仰、その下に身を置く信仰を生きる、それが本当に生きることです。 見えない事実を確認し、その下に立つにはどうしたらよいでしょうか。見えない方を見るようにして信じることでしょう。見えない神が見えるのは主イエス・キリストにおいてです。それでヘブライ人の手紙は「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(12章2節)と言います。見えない方を見えるように真剣に受け取るには「主イエスを見つめる」ことです。主の復活の後、マグダラのマリアは復活の「イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」(マタイ28・9)と言われます。復活の主イエスは今私たちには見えません。けれども「主の足を抱く」ようにして、「その前にひれ伏す」ことはできます。そのようにして見えない神を真剣に受け取ることができます。真剣に受け取るとは、それによって慰められ、支えられ、励まされることです。それによって「生きる」ことです。「わたしの正しい者は信仰によって生きる」とある通りです。信仰さえあれば生きることができます。あってもなくてもよいのでなく、神に喜ばれる信仰さえあれば、迫害にも試練にも耐えて生きることができます。それが主イエスにあって神はいますと信じ、ご自分を求める者たちに報いてくださる方であると信じる信仰です。この信仰によって新しい一週間も歩んでいきましょう。 |
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