2001年2月18日 公現後第7主日礼拝説教
「主の言葉はとこしえ永遠に残る」
ペトロの手紙1 1章22-25節

近藤 勝彦(こんどう かつひこ)
東京神学大学教授
1943年 東京に生まれる。
東京大学、東京神学大学、
チュービンゲン大学に学ぶ。
神学博士。
第二イザヤの言葉
 人間の生き方は変化します。過去に押し流され、消え去っていきます。聖書は言います。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ」。「草は枯れ、花は散る」。この変化し、消滅していく歴史の中で、聖書は、「しかし」と言います。「しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」と。この言葉はイザヤ書40 章、「第二イザヤ」の名で呼ばれる無名の預言者の言葉です。時は、紀元前5世紀、「バビロン捕囚」の時、イスラエルはバビロニア帝国に敗れ、都エルサレムは壊滅し、神殿は略奪され、廃墟と化しました。人々は敵国の都バビロンに囚われ人となりました。彼らこそ「草は枯れ、花はしぼむ」を痛切に体験した人々だったわけです。民族の永続性というようなこともないのです。イザヤ書は、それを「主の風が吹き付 けたのだ」と語りました。歴史の中の変化や消滅は、実は「主の風」による裁きだと言うのです。そのとき、私たちはひとたまりもないというのです。しかしもうひとつの現実、「とこしえに立つわたしたちの主の言葉」があると聖書は語ります。このためにこそ聖書はあり、これを聞くのが、礼拝であり、教会です。私たちもこの御言葉を聞くために、今朝もここに集まってきました。

御言葉による「新生」
 預言者第二イザヤの言葉を受けた新約聖書によると、「とこしえに立つ主の言葉」があるということは、私たち人間の生き方を変えると言うのです。「主の言葉は永遠 に変わることがない」という事実は、無味乾燥な固い言葉が壁のように立っているというのではないのです。そうではなく、変わることのない、確かに破られることのない鉄壁のような御言葉ですが、それは同時に「生きた言葉」だと言われます。命ある言葉であり、人を生かす言葉です。「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちな い種から、すなわち神の変わることのない生きた言葉によって新に生まれたのです」(23節)と言われています。御言葉はあなたがたを新に生む。「新生」あるいは「再生」が語られています。「とこしえに立つ主の御言葉」のもとに集まる。それが礼拝だと申しました。その時、「とこしえに立つ主の御言葉」から「新しい命」が湧くのです。「御言葉による再生」がある。神の生きた言葉は、あなたがたを再生させ る。Bornagainさせる。それがキリスト者とされたということです。とこしえに立つ主の言葉はキリスト者を生んだのです。
 このことが特にペトロの信仰として語られているのは、意味深いと思います。ペトロ自身主イエスを裏切り、しかも主の御言葉によって新しく生まれる経験をした人だからです。ペトロは三度にわたって、主イエスに対する信仰はもちろん、知っている ことさえ否定しました。しかしそのペトロに主イエスは三度「私を愛するか」と問い、赦された。その根本には、今日の聖書の1章18-19節によると「キリストの尊い血」があります。主の言葉はペトロを再生させました。生まれ変わらせました。ペトロを本当の主の弟子にしたのです。私たちの礼拝はこの主の御言葉に聞き、主イエ スという人格に聞きます。そして「主の尊い血」という十字架の事実の言葉に触れます。そして新しく生かされるのです。

再生のしるし
 「とこしえに立つ主の言葉」は「再生の命」を私たちに与えてくれます。「主イエスの尊い血」から「新に生きる命」を与えられます。それにははっきりした「しるし」があります。今朝の聖書の箇所には特に「愛」のことが記されています。「神の変わることのない生きた言葉」によって再生した者は、「人を愛するようになっている」と言うのです。「偽りのない兄弟愛」を抱くようになったと言われています。そして特に「清い心で深く愛し合いなさい」と勧められています。御言葉によって再生 した者たちの間には、「偽りのない兄弟愛」があるというのです。私たちはここに立ち止まってまじめにならなければならないのではないでしょうか。
 最近私の家族の中の一つの話題は、入院している家内の母の同室にいるある新興宗教の信者の人のことです。その人と家族は静かにお経を上げているそうで、その上信者仲間の名や見舞いの言葉を書いた大きな色紙を飾っているという。そして家内の母 のためにも祈りますと言うのだそうです。しかも決してわざとらしくなく、なかなかの態度で、立派なものだと言うのです。キリスト教もうかうかできません。
 愛を競うわけではありません。競いだしたら、それは愛ではありません。しかし「愛の宗教」と言えば、それはキリスト教のいわば専売特許ではなかったでしょうか。アガペーは聖書独特の言葉です。しかしキリスト者たちに愛が冷えていることはないでしょうか。愛についてまじめでなくなっていることがないでしょうか。冷えたキリスト者、とげとげしい教会は「再生の教会」ではありません。「御言葉によって新に生まれ」ている教会には「偽りのない兄弟愛」があるからです。キリスト教以外 に愛と言えるものが本当にあるか。それは今朝は問いません。ただ私たちの愛は問わなければならないと思います。「再生の命のしるし」を問いたい。「偽りのない兄弟愛」があるかと。仮面をかぶらない、演技をしないと言い換えることもできます。逆に愛無くふるまうのも、演技でしょう。「偽りのない兄弟愛」、それが「再生の共同 体」のしるしなのです。なぜならば、神の変わることのない生きた言葉によって新しく生かされるから、そこに「キリストの尊い血」があるからです。
 新しい世紀のはじめに立つ教会は、「とこしえに変わることのない主の言葉」の下に立つ教会です。そして「御言葉によって再生させられた教会」です。その具体的なしるしは「偽りのない兄弟愛」です。これは21世紀の教会として陳腐なことでしょ うか。そうは思いません。教会がまだ激しい迫害に苦しんでいた頃、3世紀の終わり、迫害を受けながら、ローマ帝国の人々のそれま1パーセントの信者数であった教会が、10パーセントに飛躍しました。その理由は、教会の中に愛があったからだと言われています。教会の中の愛に人々は平安を見出したのです。「キリストの尊い血」によって再生させられた群れの中に愛がないはずがありません。



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