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近藤 勝彦(こんどう かつひこ)
東京神学大学教授
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| 1943年 |
東京に生まれる。 |
東京大学、東京神学大学、
チュービンゲン大学に学ぶ。
東京神学大学教授、神学博士。 |
「あなたがたは地の塩である」 「あなたがたは世の光である」。山上の説教の中で、主イエスはご自分の周りに集まる群衆と近くに寄ってきた弟子たちに、そう言われました。今朝の礼拝において、私たちも、今、主イエスの周りに集まり、主の弟子としてこの御言葉を聴いています。「あなたがたは地の塩、世の光である」。主イエスのこの御言葉は、主の弟子たち、つまりクリスチャンたちが、現実の世界の中でどういう存在であり、どういう意味や位置を持っているかを語っています。現代の社会に生きる私たちキリスト者にとって、これは重大な聖書の箇所ではないでしょうか。私たちもまた実際の世にあって、キリスト者とは何なのか、また教会とは何なのか分からなくなるときがあります。この世は、キリスト者の意味や位置を理解しようとはしません。キリスト教は、ただ色々な宗教の一つにすぎないと見られ、日本では社会の中に埋没していて、キリスト者の意味や位置が鮮明でない場合も多いのではないでしょうか。皆さんも職場や周囲の付き合いで、キリスト者の姿勢をはっきり表明することを遠慮させられる風潮があるのを経験しているのではないでしょうか。しかし遠慮を繰返しているうちに、キリスト者自身、自分が世にあって何物なのか、その意味や位置が分からなくなる、主の弟子であることに確信を失ってしまう場合もないとは言えません。しかし、クリスチャンであるあなたは今朝、世の中で何物であり、どういう意味を持ち、また位置をもっているか、曖昧になる必要も、自信を失う必要もありません。主イエスが私たちに語りかけてくださる御言葉によってそれは明らかだからです。あなたがたは「地の塩」であり、「世の光」です。
「地の塩」とは何でしょうか。塩には腐敗を防ぐ性質があります。食物の保存に役立ちます。衛生上清くする働きもあります。命にはなくてならないものです。さらに旧約聖書には「献げ物」に塩をかけるという記述もあります。「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ」(レビ記2:13)と言うのです。塩はなくてはならないものです。
これに対して「地」とは何でしょうか。ここで言われている「地」は、続く「世の光」の「世」と同じです。さらにはマタイ5章16節に「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と言われていますが、その「人々」とも同じことを指しています。「地」とは「世」であり、「人々」です。社会であり、人類であり、その歴史であり、時代です。それは神から離れた世であって、そのままでは腐敗するというのです。汚染されます。塩がなければ、「地」はもたないのです。塩は「地」を清め、聖化し、神への献げ物とします。塩は「地」にとってなければなりません。その塩が主の弟子であるキリスト者であって、キリスト者がいなければ地は生気を失い、腐敗と汚染は進む一方になり、いわんやそれが神に献げられることはないわけです。
「世の光」という御言葉の関連でも同じことが言われます。「あなたがたは世の光」とあるのは、「世」の方から言えば、世は「闇」だということです。だから光を必要としているのです。聖書の他の箇所には「人々は光よりも闇の方を好んだ」(ヨハネ3:19)と言われています。闇のほうが姿を隠しやすいのです。自分の好き勝手に振舞えるように思われます。闇のほうが姿を隠して、自由でいられる気がします。しかしそれでは、本当に闇のほうが自由でしょうか。生き生きした生命力が闇の中の人生にあるでしょうか。愛や希望や喜びに満ちた人生が闇の中にあるでしょうか。実際は、闇の中にあるのは混乱です。真実への道は見失われます。互いの識別もできません。衝突を繰返します。闇が深くなれば、混乱は深まり、命も喜びも遠のきます。真の自由は失われ、生きる力は萎え果てます。人々は闇の方を好むとしても、実際にその人が生きていけるのは、その闇の中にもなお光がある場合です。本当に光がなくなれば自由も命も喜びもありません。
今朝の御言葉は、考えてみますと、現代にいよいよ当てはまる真理ではないでしょうか。科学や技術が人類の地の塩、世の光にみえた時代もありました。しかし、科学も技術もそれだけでは危ないのです。クローン人間を造りだす。それで永遠の命を持つという。混乱の極みです。御言葉こそいよいよ真実で、地に塩、世に光が必要なのです。
聖書の御言葉は、「地の塩」「世の光」のいずれにも定冠詞をつけています。英語の表現で言えば、the salt of the earth , the light of the worldです。他に「塩」や「光」が色々あると言うのではないのです。キリスト者が唯一の塩であり、唯一の光です。しかし私たちは、自分を省みてどうでしょうか。とてもそのような塩や光でありえない、それは不可能だと感じるのではないでしょうか。私たちは小さく無力です。数も少ないのです。さらに言えば、私たちクリスチャン自身がしばしば「世」に侵食されているのではないでしょうか。私たち自身が塩気をなくしていないでしょうか。腐敗を免れているでしょうか。しかし主イエスは、「あなたがたは地の塩、世の光」と言われます。小さく、弱く、迫害され、ののしられ、悪口を浴びせられている主の弟子たち(11節)に、主はそう言われたのです。今朝、私たちにも、そう言ってくださいます。
なぜ私たちキリスト者が地の塩であり、世の光なのでしょうか。それは私たちの持ち前の性質や能力がそうだと言っているのではありません。私たちの知恵、私たちの力を言っているのでもありません。そうではなく、ただキリスト者であるというその事実によって、私たちは「地の塩」「世の光」だと言うのです。キリスト者であるとは、キリストに属しているということです。キリストの者とされ、キリストにつながっており、キリストと一つに結ばれているということです。それがクリスチャンだということです。私たちはいま、主イエスの御言葉を聞いています。御言葉に聞くことで主の回りにおり、主につながっています。世にもつながっていますが、いま、この時、この礼拝の中で御言葉を聞いて主を信じる時、世につながるよりも、主イエスにつながっています。それが私たちを本当のクリスチャンにし、地の塩、世の光にします。なぜなら、主イエス・キリストこそが本来的、起源的に「地の塩、世の光」、そして創造的な意味で「地の塩、世の光」だからです。
主イエスは今朝、私たちに創造的な恵みの御言葉をもって、「あなたがたは地の塩、世の光である」とおっしゃってくださいます。それは、私たちに対する主の恵みの言葉です。この言葉で、今朝、主は私たちを赦し、慰め、そして立ち直らせてくださるのです。これは創造的な恵みの言葉です。私たちが罪に捉えられ、不信仰であり、弱さや欠けをもち、失敗もする。しかしそれにもかかわらず、あなたがたは私の弟子、私に属するものだと主イエスは言われ、「あなたがたは地の塩、世の光」とおっしゃってくださるのです。起源的に、また創造的に「地の塩」であり「世の光」である主イエスに属することで、私たちは地に対して塩であり、世に対して光なのです。この主の恵みの言葉、主の赦しと慰めの言葉に私たちもアーメンと言いたいと思います。それを肯定し、喜びたいと思います。あなたの赦しと、立ち直らせてくださるあなたの恵みの力によって、あなたのお言葉のとおりです、そう言いたいと思います。そう言わなければなりません。主の恵みの言葉は、創造的な御言葉であり、私たちに主が語りかけ、私たちがそれを信じて受けとるとき、その御言葉は実現するのです。私たちは、主に属するものとされ、「地の塩」「世の光」とされます。
その時、主イエスは、「山の上にある町」と言われ、「ともし火」と言われます。「町」は小さな町であり、「ともし火」も小さな灯です。主の弟子の群れは小さな群れです。しかしその小さな町は隠れていない。小さな灯が家の中のものすべてを照らします。小さくてよい。しかしキリスト者とされたことを失わないキリスト者でいることです。主によって救われ、神様との交わりに入れられ、御国に希望をいだいているキリスト者です。キリストの者とされたことを失わないキリスト者です。「あなたがたの立派な行い」とあるのもそのことではないでしょうか。主イエス・キリストを喜び、誇りとし、主イエスを愛し、主イエスのゆえに隣人を愛するキリスト者です。
ある教会でこういう話を聞きました。まだ教会堂もなく、幼稚園の園舎を借りて礼拝を守っていた。その幼稚園で一人の園児が交通事故で死んだというのです。その園児も家族も教会は知りませんでした。しかし礼拝の中でその園児とその両親、家族のために祈っていたというのです。園児の祖母が、日頃、自分の孫がどういうふうに幼稚園に通っていたのか、その道筋を辿って歩いてみたというのです。日曜日のことでした。孫のことを考えながら、道を辿って幼稚園に着いたとき、そこで行われている礼拝の中で、自分の孫の名が挙げられ、自分たちの家族のために祈られていた。その時からその祖母は礼拝に出席するようになり、やがてその家族全員が洗礼を受け、救いに入れられたというのです。小さな美談です。どの教会にもある小さな美談です。小さくてよい。主イエスを愛することは、隣人への愛になり、見知らぬ人にも関心を配り、その人のために祈らせます。そのキリスト者が地の塩、世の光です。人々を腐敗から守り、神へと捧げ、命へと導く「地の塩」「世の光」です。
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