2004年3月14日 受難節第3主日礼拝説教
「子とされた者の祈り」
ルカによる福音書11章5-13節

近藤 勝彦(こんどう かつひこ)
東京神学大学教授
1943年 東京に生まれる。
東京大学、東京神学大学、
チュービンゲン大学に学ぶ。
東京神学大学教授、神学博士。
 主イエスの祈りの教育

 信仰生活が生き生きとしているかどうか、その調子が分かるのは、誰の場合もその人の「祈り」によってではないかと思います。神様に祈ることが弱々しくなりますと、信仰生活は力を失っていきます。主イエスはそこで、弟子たちに対し、「祈りの教育」をなさいました。

主イエスは言われます。「あなたがたのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです』」。話は、真夜中です。友人は「面倒をかけないでくれ」と答えるでしょう。当時の家は一部屋で、家族全員が一緒に寝ていました。父親が起きて、戸を開ければ、ちょうつがいの大きな音で、子供も全員目を覚ましてしまいます。緊急とは言え、無理な願いを聞くわけにはいきません。「しかし言っておく」と主は言われて、「しつように頼め」と言われました。

願い求めよ

 このたとえ話によって、主イエスは弟子たちに祈ること、願い求めることを止めてはならないと励ましておられます。「しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」と主は言うのです。あなたがたには緊急なこと、必要なことがあるではないか、それを求めよというのです。生活上のこと、家族のこと、将来のこと、世の中のこと、具体的に悩んでいることがあるのではないでしょうか。自分だけの願いを求めるのはご利益宗教のようで、はばかられるかもしれません。しかし求めないのは、諦めていることになります。自分ひとりで抱え込んで悩んでいるのは、神様を信じていることにならないのです。さらに、日本社会に福音がもっともっと伝えられるように、キリスト者が起こされ、有意義な働きがなされるように、私たちは助けを必要としています。世界の平和と正義のこともあります。もうこれ以上のテロはなくして欲しいのです。国際社会に神の正義が行われるように、イラクに安定が与えられるように願い求めたいと思います。

意思的格闘的な大人の祈り

 「しつように」という言葉は、聖書の中でここ以外に出てこない言葉です。「しきりに願う」と訳されたこともあります。「恥ずかしがらず」「臆せず」「忍耐強く」、いろいろな訳し方がなされました。それで、イギリスの優れた神学者であったフォーサイスは『祈りの精神』という書物の中で、「粘り強い祈り」について語りました。意志的な格闘的な祈りが必要だと言ったのです。時には神に抵抗さえする意志的な祈りを神ご自身が求めていると言います。それが神の深い愛、深いご意志だと語っています。祈りそのものが仕事であり、労働であるとも言いました。休み時間の祈りでなく、「仕事そのもの」としての祈りです。それは大人の意志的な祈りです。そういう祈りが必要です。

 しかしそれにしても、今朝この聖書の箇所で主イエスが言われたのはそのことでしょうか。そういう意味で、大人の意志的な格闘的祈りとして、「しきりに願う」ように励まされたのでしょうか。聖書を読んでいるうちに、もう一段奥のことがあると思われてきました。と言いますのは、ここで主イエスはただ「しつように頼め」と言われただけでなく、わざわざ「しかし言っておく」と言われました。九節にも「そこでわたしは言っておく」と繰り返されます。ここには、主イエスだけが言えることが言われていて、それが祈りの励ましになっています。主イエスのゆえに成り立つことが言われているのだと思います。主イエスだけが言えることとは何でしょうか。それは、「求めよ」と言われる神がおられる、その神は身近な神であり、友達以上の神であり、「父である神」だということです。だとすると、祈りは、「子とされたものの信頼」の行為ということではないでしょうか。「臆せず」「恥ずかしがらずに」頼んでよいのです。なぜなら、それが父である神への、子とされたものの信頼の表現だからです。

子とされた者の信頼の祈り

神は父であるゆえに祈られることを求めておられます。子とされて願うのに、臆し、恥ずかしがる必要はありません。父を信頼してよいからです。主イエスがこられたのは、まさにそのためだったのです。主イエスによって、私たちは、神の子とされました。主イエスの十字架はそのためでした。主はご自分の十字架の贖いによって、私たちを神の子としてくださり、子とされたものとして、神のそば近くに招き、私たちが「しきりに願うように」と励まし、導いておられます。願い求める祈りは、子とされたものの当然の表現なのです。

祈らないこと、神に願い求めないことは、子とされたのに、子とされたことを認めないことです。同時に神が父であることを認めないことになってしまいます。私たちの罪が赦され、神の子とされるために主イエスが来られ、十字架にかかられた、そのことを無意味にしてしまいます。祈らないのは、そういうことです。

 このことは、「意志的格闘的な大人の祈り」とまったく別ではありません。子とされた者の信頼の祈りが根本にあって、あの意志的格闘的な大人の祈り、仕事としての祈りも可能になるのではないでしょうか。大人の祈りも根本においては、神に対して「子供の祈り」なのです。主イエスはその「子供の祈り」を教えられました。

どんな願いも恥ずかしがらずに願い続ける。そこに神への信頼が表現され、私たちの信仰生活は力を回復します。




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