| 2004年7月18日 教会創立114周年記念礼拝 「岩の上に立てられる教会」 マタイによる福音書16章13-20節 |
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私たち人間は色々な問題に悩まされます。悩みの中で疑問や迷いを抱き、問いを持ちます。しかし今朝、聖書を見ますと、人間は問うだけではない、問いかけられてもいるというのです。旧約聖書には二つの大きな問いかけがあります。「あなたはどこにいるのか」という問いが一つです。人間は色々なものを失いますが、根本的にあなた自身を失っていないかというのです。もう一つは「お前の弟アベルはどこにいるか」という問いかけです。人間は自分を失うだけではない。兄弟も失う。自分と一番身近な者を失う。そう、聖書は人間の根本問題を見ています。 新約聖書にも、人間に対する根本的な問いかけが記されています。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いです。主イエスはそう問いました。ここに実は人間に対する「最大の問いかけ」があると言ってもよいのです。聖書全体はこの問いのために、そしてこの問いに正しく答えるために書かれたのです。その答えは「あなたはメシア、生ける神の子です」というのです。 教会が建つ岩 そう答えたシモンを主イエスは「岩」だ、「ペトロ」だと呼んで、「その上にわたしの教会を建てる」と言われました。今朝は、皆さん教会の礼拝に集まっております。それは、実は「岩の上」に来ているのです。教会がその上に建てられている岩があります。それはどんな問題や悩みの中にあっても私たちの人生をその上で生きることのできる岩です。「あなたはメシア、生ける神の子です」。これが教会の土台であり、私たちの人生の土台です。この岩は、どんな悩みにもトラブルにも耐える「岩」です。教会の創立記念日の礼拝で特に覚えるべき御言葉ではないでしょうか。 主の問いかけに答えたペトロに対し、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と主は言われました。その教会には「陰府の力も対抗できない」と言われました。「陰府の力」というのは、「死者の国の門」という言葉で、その門を通って「死の支配」が吹き出しているのです。生きる力が萎えさせられる経験は、現代人の身近な経験ではないでしょうか。命が粗末に扱われたり残酷な事件からショックを受けると誰でも心が深く傷つき、生きる力が萎えます。もういいやという気にさせられる。しかし主イエスが「わたしの教会を建てる」と言われたとき、その教会は「陰府の力」に優るというのです。「死の力に屈しない」それが教会に与えられている賜物です。主の教会は、生きる意味、生きる目的、生きる喜び、生きる力を伝えるのです。そうでなければ主イエスが言われた教会ではありません。 死と罪に打ち勝つ 「死」だけでなく、「罪」にも打ち勝っていると主イエスは言われます。「あなたはメシア、生ける神の子」と主イエスに答えるペトロに、主は「天の国の鍵をさずける」と言われました。「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と言うのです。「つなぐ」とは「罪を罪のままにする」ことであり、「解く」とは「罪を赦す」ことを意味します。「罪」は苦しいものです。良心の呵責で悩ませます。罪が顕になれば周りからのもの笑いになる時もあります。立場を失います。だから罪は人間を不安にさせます。本当の安心がありません。罪のままで平安にいられる人はいません。「死に勝つ」ことも重大です。しかしまた「罪を赦され、罪に勝つ」ということは人生の本当に重大なことだと思います。それが教会にはあるというのです。主イエスに対して「あなたこそメシア、生ける神の子」です。そう答える中に、罪と死に勝つ力がある。赦しと命があるのです。 それぞれの人生の中で それぞれの人生、それぞれの職場、あるいは家庭、時には病院のベッドの中で、主イエスは問いかけておられます。あなたはそんなに生きる力を失って、一体「わたしを何者だと言うのか」。あなたはそんなに別のものに心を奪われていて、一体「わたしを何者だというのか」。あなたは自分を失い、あるいは兄弟を失い、「私を何者だというのか」。 「あなたこそメシア、生ける神の子です」。そうお答えするなら、そこに福音は力を発揮します。私たちを罪と死から解放します。そこに教会が建てられ、天の国への門が開かれます。自分を取り戻し、兄弟も取りもどすでしょう。主イエスが「わたしを何者だというのか」と問いかけて下さることは、主に向かって正しくお答えして、福音の幸いに生きよ、ということではないでしょうか。「わたしの教会」として建てられなさい、ということです。主イエスは「神の子」「生ける神の子」です。天地の創造者であり、命を与え、死者を生き返らせる神です。この方によってはじめて死からの救い、そして罪からの救いがあります。この方に「あなたはメシア、生ける神の子」と真実に答えるとき、それは、あなたは「わたしたちの罪を赦す方」「他のあらゆる支配から私たちを解放して下さる方」私たちの慰めの主と言っているのです。そう真実に答えるとき、福音が力を発揮します。教会が建てられます。新しい人生が始まります。 教会はどういう群か 教会はどういう群でしょうか。それは、どんな時にも、この主の問いかけとペトロの答えが生きて力を発揮している群です。この問いを「最大の問い」とせず、またあの答えを失ったとき、つまり世の中にはもっと深刻な問いが別にあると考え、もっと別な答えがあると思い出したとき、教会は生命を失い、力を失います。逆に、これこそ「最大の問い」とし、それに対する真実な答えをするとき、教会はどんな時にも力を発揮します。人生は土台を持ちます。 「わたしの教会を建てる」。この言葉は色々な議論を生みました。教会(エクレシア)という言葉は、マタイ福音書にはこの箇所を除くとあと一箇所(18章17節)にしか出てこないので、この箇所は後の時代の人が付加した言葉ではないかというのです。しかしメシアの周りにはメシアに属する民のエクレシアがあって当然です。神の民の集いがあって当然です。神の民を集めるために、主イエスはこられ、十字架にかかられたのです。「あなたはメシア」、そうお答えする時、わたしたちは、そのメシアの民とされているのです。 |
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