| 2005年2月20日 受難節第2主日礼拝 「御言葉をどう聞くか」 マタイによる福音書15章21-28節 |
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御言葉が正しく語られ、聖礼典が正しく執行されること、この二つが教会の「しるし」といわれます。この二つはまた私たちの信仰生活の命の源に関わるといってよいでしょう。しかし御言葉を正しく聞くことが、私たちには難しいときがあります。御言葉が理解できず、私自身の切実な問題に答えてくれないと思うときです。そういうときどうしたらよいのでしょうか。今朝の聖書の箇所は、一人の婦人の例をあげて、主の御言葉をどう聞くか、主の御言葉が私たちの切実な問題に答えてくれないときどうするかを教えてくれています。 カナンの女 主イエスがティルスとシドンの地方に行かれたとき、その地に生まれたカナンの女がやってきました。そして「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫んだというのです。彼女の娘が悪霊にひどく苦しめられていました。婦人には夫はもういなかったという解釈もあります。いずれにせよ、苦しむ娘を抱えて、彼女は主イエスのところにきました。「叫んだ」というのは、継続を意味する動詞形で書かれていますから、「叫び続けた」のです。「わたしを憐れんでください」。詩編によれば、この叫びは死の床の中で、あるいは敵に苦しめられる中で叫ばれています。これが教会の祈りにもなりました。悩みが大きければ大きいほど、祈りの叫びは短くなります。娘の苦悩、家族の悩み、あるいは死の恐れ、敵を持つ悩み、将来の不安、私たち自身の無力、「主よ、憐れんでください」。これは、私たち自身の祈りです。「しかし、イエスは何もお答えにならなかった」。御言葉がなかったのです。婦人は悩みの中で主の沈黙に会いました。 御言葉を聞く 婦人は、イエスの前にひれ伏し「主よ、助けてください」と言います。しかし主イエスは「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」と答えられました。明らかに、拒否の回答です。婦人は、長い間主の沈黙に会い、そしてその挙句今度ははっきりした拒否に直面したわけです。これでもう話は終ったということではないでしょうか。あとは信仰の躓きと失意のほかにないのではないでしょうか。沈黙と拒否の経験は、私たち自身の信仰生活にもないことではありません。礼拝で取り次がれる神の言葉が自分の悩みに答えてくれない。それは誰にもある経験です。一体その中で、なお神の御言葉をどう聞くのでしょうか。「イスラエルの家の失われた羊」に救いは伝えられ、「子供たちのパン」を取って子犬にやってはいけない。それでは私の娘はどうなるのです。そして私自身も。しかし「子犬」はここでは「家に飼われて愛されている犬」のことを意味しています。「家の犬」は愛され、大事に扱われて、野犬とはっきり区別されていました。婦人は主イエスの言葉の中の愛を聞き逃しませんでした。 「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」。婦人は「神は正しい」としました。そして自分には助けていただく権利とか資格があるとは言いませんでした。ただ神のその正しさに訴えて、婦人は神に信頼し、失望することなく願い続けたのです。なぜ主イエスの沈黙と拒否の中で、失望しなかったのか、それは神を正しいとし、自分に当然の権利があるとは考えず、イエスを主とし神とし、その前に「ひれ伏し」、拒否の中にすら示されている主の「愛」に信頼したからです。それが御言葉の聞き方です。沈黙と拒否の中にあって、神を正しいとする、そして自分の権利でなく、キリストに現われた神の愛に信頼し続ける、そのように御言葉を聞き、祈り、願い続けるのです。 神の御業以前に神ご自身に捕らえられる 先日、「全四国クリスチャン修養会」という福音派の人々の修養会で奉仕をしました。その折、早天祈祷会の中で前世紀初頭のスコットランドの一人の牧師の黙想書が読まれました。エマオ途上の弟子たちの「そのことがあってから、もう今日で三日目になります」という箇所についての黙想です。この箇所によって「失意に警戒せよ」というのです。信仰者はどうしたら失意から救い出されるでしょうか。それは、神の御業を経験する前に、神ご自身を経験することだというのです。このことは今朝の聖書とも関係します。 神の活動はなお残されています。婦人の娘は癒されていません。私たちは、神の御国の全き到来まで、なお神の助け、憐れみを求め続けます。信仰生活に試練があり、課題がなおあります。人生の労苦が続きます。日本伝道の課題があります。神の御業を求め続けます。しかし私たちは神の御業を受け取る前に、すでに主ご自身を受け取っています。主の助けがなお与えられないとき、すでに主ご自身を与えられ、主に結びついている。これが御言葉の聞き方ではないでしょうか。失意に警戒してください。期待していることが起こらないことに、失望すべきではありません。願っている通りの御言葉が与えられないことにも失望すべきではありません。御言葉によってすでに主ご自身に捕らえられているではありませんか。あの婦人は、主の沈黙の中でも、拒否の言葉の中でも、主ご自身に捕らえられていました。それが神を正しいとし、信頼を寄せ続けた理由です。 主イエスは言われます。 「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」。あなたの信仰は立派だ、あなたの信仰は大きいというのです。それは、私たちの側から言いますと、主イエスに信頼を寄せる以外に何も持っていない信仰です。しかし主の御業を受ける以前に、主ご自身に捕らえられている信仰です。主イエスが捕らえ、主にあって神の愛が捉えてくださったとき、その主から私たちを引き離す何ものもないと聖書は告げています。それゆえ失意に陥ることなく、信じ、祈り続けます。御言葉を聞くことは、御言葉と共に主イエスご自身を経験し、主に捕らえられていることです。その信仰を主は「あなたの信仰は立派だ」とおっしゃってくださいます。そして「あなたの願いどおりになるように」ともおっしゃってくださいます。私たちにご自身を与えてくださる神が、その御業をなさらないはずはありません。この御言葉を聞いて、信じて、受け入れるものとなりたいと思います。 |
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