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近藤 勝彦(こんどう かつひこ)
東京神学大学教授
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| 1943年 |
東京に生まれる。 |
東京大学、東京神学大学、
チュービンゲン大学に学ぶ。
東京神学大学教授、神学博士。 |
虚脱の中に来られる主
聖書の中には、私たち自身がいると思われる箇所があります。今朝の箇所もそうです。復活の主が七人の弟子たちにご自身を現わされたと記されています。彼らが漁をしていたときのことでした。「七人」という数字は他の数字で割り切れない完全数で、聖書の中では象徴的な意味を持っています。それは教会のこと、そして私たちのことを意味していると理解されます。
「わたしは漁に行く」。ペトロははりきってそう言ったのではありません。主イエスとお会いする前の自分の生業(なりわい)に仕方なく戻っていくのです。主イエスの復活の後にも教会の中にそういう「後戻り」があったというのです。明治、大正期の代表的な牧師植村正久によれば、人生の退屈、あるいは心配事で少しも楽しくない状態、人生の無意味や生活苦、心の鬱屈などで、心苦しい者たちが「わたしは漁に行く」「わたしたちも一緒に行こう」となったというのです。
私たちも無意味感や虚脱感に襲われるときがあるでしょう。「その夜は何もとれなかった」。それが意味を失った人生や世界の現実です。わたしたちもしばしばそうではないでしょうか。人生何十年も生きてきた。しかし「何もとれなかった」。
そういう弟子たちの虚脱状態の中に、主イエスはご自身を現わしてくださる、今朝も私たちにそうしてくださると聖書は証言しています。「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた」(4節)。イエスはその夜、弟子たちが空しく悪戦苦闘しているのをじっと目を凝らし、闇の中で見守っておられたのです。そして声をかけます。「子たちよ」。この呼びかけが、主と私たちの交わりを新たにします。私たちが空しい生活に明け暮れ、失意の中で目標を失っているとき、主は私たちをご覧になって、「子たちよ」と呼びかけてくださいます。それを知ることが、復活の信仰には含まれています。今朝私たちが礼拝に集ったのは、この主の呼びかけを聞くためです。
復活の主との出会い
「子たちよ」と呼びかけてくださる主は、愛に充ちた指示をなさいます。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(6節)。主イエスなしではうまくいかなかったことが、主イエスのお言葉によってやり遂げられます。それが弟子たちの経験になります。そのとき、イエスの愛しておられたあの弟子が「主だ」と言ったというのです。ペトロは裸同然だったので上着をまとって湖に飛び込み、泳いでイエスのもとに急ぎました。岸から百メートルと離れていなかったからです。疲労も吹き飛んだ弟子たちの喜びぶりが記されています。陸に上がってみると、炭火がおこしてあり、その上に魚がのせてあり、パンもありました。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」。主イエスの招きです。主はわたしたちを招き、交わりの中にいれてくださいます。そのためにご自身を現わされたのです。
中心にあること
二度繰り返されている言葉があります。「主が弟子たちに御自身を現わされた」という言葉です。1節と14節に出てきて、全体を包んでいます。その真ん中の7節で言われるのは、「主だ」という言葉です。12節の「主である」も同一の言葉「主がおられる」です。これが今朝の箇所の中心にあります。
復活信仰の中心は、ご自身を現わされる主ご自身ですが、そこに弟子たちの応答が起こります。「主がおられる」と叫ぶのは教会の信仰告白です。こう告白するのが主の弟子たちです。教会です。礼拝と信仰生活の中にこの告白があります。私たちに主が臨在し、共に生きてくださる。なんと素晴らしい慰めでしょうか。主がおられるので、教会の新しい人生が始まります。空しい生活は終り、甲斐のある人生がはじまります。主イエスとの生命ゆたかな交わりに生かされます。だから教会は「主がおられる」と告白します。
ルター『小教理問答』の一節
「主がおられる」と言える素晴らしさを教えている文章があります。宗教改革者マルティン・ルターの『小教理問答』の一節です。ルターは親が子どもたちに信仰をやさしく教えるように語りました。まず使徒信条の第二項を読むようにと言います。そして子どもが「それなあに」と聞く。そのとき父親は次のように答えるのだと言うのです。「お父さんは、イエス・キリストがお父さんの主だと信じている」。「この迷子になり罰を受けるときまった人間であるお父さんを、主が、あらゆる罪と死と悪魔の力から救い出し、買い戻し、ご自分のものにしてくださった」。「その聖なる高価な血と、罪がないのに受けた苦しみと死によって」と言うのです。そしてそれには目的がありました。「それはお父さんがイエスさまのものであり、イエスさまの国で、イエスさまのもとに生きるため、そして永遠に正しい結びつきの中で、罪を取り去られて、幸いのうちに、イエスさまにお仕えするためなのだ」と。「それはちょうどイエスさまが死から復活されて、永遠に生きて、支配してくださるのと同じさ」。「このことは、本当に、本当のことなのだ」。そう教えなさい、そう教えられる中で子どもたちは育つと言うのです。
目的のある人生
「主がおられる」ゆえに、私たちは「イエスさまのものであり、イエスさまの国でイエスさまのもとに生きてお仕え」します。主イエスが共にいてくだされば、失意の人生ではありません。無目的な人生でもありません。主イエスに仕えて、153匹の大きな魚でいっぱいになる。153という数字は、当時の人々に知られていた魚の種類のすべてという解釈もあり、また異邦人のすべてとイスラエルの残された民族の数を合わせた数字とも言われます。今日で言えば全世界の国の数でしょう。いずれにせよ世界を包む、大きな数字です。主の福音を伝える広大な働きを象徴している数字です。主イエスが死から復活されて、永遠に生きて、支配してくださる。その主に仕えて空しいはずがありません。生きる目当てがないはずがありません。このことは、本当に、本当のことなのです。私たちはそう信じているのではないでしょうか。
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