| 2006年3月19日 受難節第3主日礼拝 「主こそ王」 詩篇93編1-5節、フィリピの信徒への手紙2章6-11節 |
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敬虔の詩 詩編は大切な敬虔の詩です。ルターも詩編に深く親しみました。詩編の時代、人々は、大地は大海の上に浮かんでいると想像していました。大水が岸を洗い、時には溢れ返り、逆巻く水となって轟き、人々を脅かしました。実際人々はいろいろな破壊的な力によって脅かされていたのです。しかしその中で詩編の詩人は、主なる神を信じ、「主こそ王」と信じたので、生きることができました。「世界は堅く据えられ、決して揺らぐことはない。御座はいにしえより固く据えられ、あなたはとこしえの昔からいます」(2節)と詩人は歌っています。 この詩の素晴らしさは、主が世界を創造されたと信じ、告白しているだけでなく、いま現に、そして不断に王であって、脅かす力に立ちまさって、その造られたものを守ってくださると信じていることにあります。「主よ、潮はあげる、潮は声をあげる。潮は打ち寄せる響きをあげる」とあります。太古の昔のことではありません。今現在のことです。人々はどこに「とどろく大水の声」を経験したのでしょうか。自然の猛威、それに歴史や人生の苦難の中にです。人々を脅かす破壊的な声は、時には、異民族の侵入や、敵軍の叫びとして聞こえてきたに違いありません。「大水のとどろく声よりも力強く、海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主」(4節)。神である主が「王」でいてくださることが、脅かしの経験の中で安心して生きることの出来る支えなのです。 詩編93編の中心 この詩の中心は何でしょうか。短いこの詩の中に5回でてくる言葉があります。「主」と訳されている言葉です。翻訳上省かれていますが、1節にはこれが2度でてきます。そして3節、4節、5節にも「主」と言われます。「主」と訳されているのは、あの「神聖な四文字」YHWHによる神の名です。この神聖4文字が出て来るたびごとにアドナイ(主)と読んだのです。親しく固有名詞をもってモーセにご自身を表わし、ご自分の民を選び、契約を結び、そのしるしに律法を与え、荒野の旅路に伴われた主です。その主が王であるというのです。主が「王」であるという信仰は、私たちにもあります。私たちは「御国がきますように」と祈ります。これは、「主こそ王」と信じ、その主の恵みの支配による御国がきますようにと祈っているのです。「王」は力を持ち、支配しておられます。主が王であるということは、私たちは「その主のもの」ということです。主だけが私にとって「絶対的な力」と信じているのです。どんな脅かしも、私たちをこの王の手から引き離すことはできません。主が王とはそういうことです。 深い平安 そこからこの詩編の示す深くゆるぎない平安が湧いてきます。「大水のとどろく声よりも強く、海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます主」。破壊の力に脅かされながらも詩人には今、平安があります。「潮は打ち寄せる響きをあげる」。破壊の力、混沌の脅かしは絶え間なく、襲ってきます。病が脅かし、死が脅かします。しかしその中で詩人はいま守られています。主が彼の王であることが、彼を支え、守っています。 私たち現代人も破壊の力、人生や世界を脅かす力にしばしば身をさらすのではないでしょうか。かつて東西冷戦の深刻な時代に、時のドイツの大統領フォン・ヴァイツゼッカーは「私たちは原子爆弾と共に生きることを学ばなければならない」と語りました。今日ではどうでしょうか。私たちは今日も、色々な危険や脅かしと共に生きることを学ばなければならないでしょう。激しく変化する社会と共に生きることを学ばなければなりません。テロに駆り立てられている人々がいます。あるいは地球環境を破壊する技術があります。そうした高度技術とともに生きることを学ばなければなりません。犯罪が多発する社会に生きています。そういう社会と共に生きることを学び、自分の病や家族の病とも共に生きることを学ばなければなりません。 平安と責任 しかもその中で、私たちは負うべき責任を負い、なすべき義務を果たしていかなければなりません。逃げるわけには行かないのです。世界の平和、技術の正しい使用、社会の健全な育成、個人や家族の健康管理、身近な人々の支えになること、遠くの人々を助けること、それらすべてに私たちの責任があります。 そのすべてにおいて、「究極の不安や恐怖」から解放されているでしょうか。脅かす力の中にあって皆さんは平安の中にいますか。守られていますか。守られていなければ、正しく責任を果たすことはできないでしょう。恐怖に足がすくんでいては、「原子爆弾と共に生き」「病と共に生きる」ことはできません。人生と世界のどの現実も王である主の力の範囲内です。世界も個人の運命も王である主の力の中にあります。主こそ王である。どんな脅かしにもまさる主なる王がおられます。だから守られています。これが詩編93編の福音です。 守られているということは、脅かしがないことではありません。脅かされながらも平安であり、感謝ができるということです。さらに言えば、喜びを失っていないのです。そして平安にある感謝が、私たちの責任能力を支えるのではないでしょうか。逃げる必要はありません。変えるべきことがあれば、変えていく勇気も湧いてくるでしょう。まことの平安は、変えられないものであれば、それを平静に受け入れるのではないでしょうか。 聖書と教会を伝える 詩編93編は、最後に「あなたの定め」と「あなたの神殿」があると言います。「定め」は「律法」、契約の神を伝える「聖書」です。「神殿」は王なる神が、恵みを持って臨在してくださる場所、私たちには「教会」です。脅かしの力を経験している社会、その中の人々に対し、聖書と教会があると伝えることができます。まことの王のもとで生きよ、恵みの力に守られ、平安のうちに責任的に生きることのできるこの場所で主を信じて生きよ、と伝えることができます。伝えなければなりません。詩編93編は平安の信仰のうちに、私たちの使命を思い起こさせてくれます。
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