2006年10月1日 世界宣教の日・世界聖餐日
「キリストは私たちの平和」
イザヤ57章18-21節、エフェソの信徒への手紙2章14-18節

近藤 勝彦(こんどう かつひこ)
東京神学大学教授
1943年 東京に生まれる。
東京大学、東京神学大学、
チュービンゲン大学に学ぶ。
東京神学大学教授、神学博士。

敵意に引き裂かれた世界

 現代の世界には「敵意」が猛威を振るっています。世界各地のテロは深刻な世界問題です。日本社会でも家族間の殺人、いじめによる自殺、子供の殺害が頻発しています。「敵意」が人間の心を犯しています。しかし聖書は言います。「実に、キリストはわたしたちの平和」「十字架によって敵意を滅ぼされた」と。

 キリストが「わたしたちの平和」と言われているのは、「二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」たからです。主イエスは、ユダヤ人とともに異邦人を受け入れ、ローマの百人隊長の部下を癒し、シリア・フェニキアの婦人を助け、その娘を癒しました。異邦人伝道は、主イエスご自身から始まっています。それだけでなく、キリストの十字架が「敵意」を滅ぼすといいます。「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」。

キリストはわたしたちの平和

 キリストが「わたしたちの平和」というのは、敵意によって隔てられた人と人が「一つの体」にされること、そしてさらに「神との和解」に入れられることです。神への敵意が滅ぼされ、人と人とが一つの体にされる。それがキリストの十字架の中で同時に起きているというのです。

 聖書は観念的なことを言っているわけではありません。「教会」として実現していることを語っています。キリストは「双方を御自分において一人の新しい人に造りあげて平和を実現し」とあります。「一人の新しい人」、「一つの体」というのは、個人のことでなく、「教会」のことです。教会の中にはもちろんユダヤ人がいました。いまもいます。しかし異邦人もいます。キリストが十字架の上で、私たち人間の敵意、神に対する隔たりや他者に対する敵意をすべて受け止め、それを滅ぼしてくださったからです。教会の中にユダヤ人と異邦人がいなければなりません。イスラムの人、トルコ人もエジプト人もいなければなりません。いるのがキリストの教会です。主の十字架が敵意を滅ぼしたことを身をもって証しするのは教会です。

教会はどこで生まれたか

 教会はいつ生まれ、いつ造られたのでしょうか。一つの答えは、聖霊が注がれたペンテコステの時に教会は生まれたという答えでしょう。正しいと思います。しかし主が弟子たちを選んでみそばに集め、彼らを養い、また福音を伝えるために派遣されたとき、そこにもう教会があったとも考えられます。それどころか神がご自身の民を選ばれ、その選びと契約に福音を通して異邦人も接木されたわけで、神のはじめの選びと契約の中で教会は開始していたとも考えられます。

 しかし今朝の御言葉によれば、教会がいつ造られたか、もう一つの答があります。それは、「敵意」という隔ての壁に分けられた二種類の人間が「新しい一人の人」にされ、双方が「一つの体」として神と和解させられ、神との平和と互いの平和、二重の平和が生じたとき、そこに「新しい一人の人」として「教会」が産み出されたのです。それはどこででしょうか。それは神に対する敵意と人間どうしの敵意が十字架によって滅ぼされたところです。つまりキリストの十字架の中で教会は造られ、一人の新しい人として生まれました。教会は主イエスの十字架の中で造られたのです。

 私たちも主イエスの十字架の中で一つの体である教会に入れられました。洗礼はそのことを表わしています。私たちも、主イエスの十字架の中で敵意を滅ぼされ、新しい人に造りかえられたのです。教会生活の中で重要なことは、私たちの敵意が十字架によって滅ぼされていることです。神と人とに対する敵意が滅ぼされるまで十字架のキリストと一つになり、十字架のキリストの中で一つの体に参与することです。キリストの十字架の中で造られた平和があります。その平和を生きるのが教会です。教会の中にある一体性を信じ、それにあずかることです。

ある中学生の言葉

 最近、キリスト教学校で先生をしている人の話を聞きました。中学一年生の生徒が「生きるって辛いですね」と言うんだそうです。中学一年生にそう言わせる何か原因があるのです。一人ぼっちなのでしょうか。いじめられているのかもしれません。競争についていけないのかもしれません。親との関係が壊れているのでしょうか。将来の不安があるのかもしれません。あるいは自分自身の価値が低くしか感じられなくて、自分で自分を非難しているのかもしれません。しかしいずれにしても、その中学生を孤立させてはいけないのではないでしょうか。彼を周囲の「敵意」から救い出し、彼自身の「敵意」を終わらせ、「新しい一人の体」の中に受け入れることが必要です。主イエスはその人を受け入れてくださっているのではないでしょうか。どんな能力の違いも問題ではないでしょう。敵意を滅ぼして、「新しい一人の体」に入れて、神との和解に生かす。それが主イエスの願いであり、主の十字架の力です。その中で私たちは、自分でも自分を受け入れることができるのではないでしょうか。自分に対しする敵意も滅ぼします。キリストが御自分の肉においてその敵意を全部受け止め、そして滅ぼしてくださいました。あなたは主イエスの十字架により、受け入れられている。あなたのために主イエスの血が流された。そう語り、そう伝え、それを実感する群れの中に迎え入れることができます。生きる勇気が湧いてくるはずです。

キリストとの一体の中で

 一人で生きなければならないとき、敵意にさらされているとき、生きるのが辛くなります。しかし敵意が滅ぼされ、キリストとの一体の中で生かされ、主にある兄弟姉妹との一体性の中にいると知る。そうしたら、生きていることはすばらしいことです。生きることは喜びです。

 今朝は聖餐にあずかります。聖餐は主の十字架によって敵意が滅ぼされ、一つの体に入れられた聖礼典です。聖餐の中で主イエスとの一体、そして主にある兄弟姉妹との一体性にあることを経験することができます。聖餐にあずかって、主イエスの十字架の中で神と和解させられ、「一つの体」に入れたことを味わいたいと思います。





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