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パウロの感謝は惨めな人間から救われたからでした。パウロの惨めさ(丁寧に訳すると「救いのない惨めさ」という意味です)とは何であったでしょうか。パウロはそれについて自ら告白しています。
善をなそうとする意志はあるが、それを実行できない。自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。それをパウロは罪の法則のとりこになっている、といっております。
律法
前述のパウロの告白は、私たちの日常生活の経験から少し理解できる部分があります。それは望む善は行わず、望まぬ悪を行っている、という節です。しかし、もっとよく解るのは、自分でなすべきと思い、語るべきと思っていることに反して、なすべきことをせず、いうべき、語るべきことをいわず、語らずという状態についての悩みであり、後悔です。しかし、それ以上の心のせめぎあいは日常的には曖昧であったり、見過ごされています。
そんな私たちにパウロは大切なことを教えてくれています。そのひとつは内なる人としては神の律法を喜んでいる、というのです。神の律法の大切さを知っているというのです。例えば殺すなです。無条件に殺すなです。聖書のいう理由は創世記以来、何度も記されています。人間は神に似せてかたどってつくられたからです。人間の生命は神のみ手の中にあり、神の領域に関わっているからです。
ところで先程読んで戴きました弟殺しカインの話です。カインは弟アベルを殺した後で、主なる神に、わたしは弟の番人でしょうかと、弟のことなどどうでもよい態度でした。さらにアダムとエバも神の命令に反して木の実を食べながら、神の命令に反した行為、間違った自由意志の選択について深い反省をすることもなく罪を犯したとは思っていないようです。アダム、エバ、カインと、いずれもモーセ以前、律法や十戒以前です。律法によらなければわたしは罪を知らなかったといっている通りのように見受けられます。その意味では、善悪の基準が曖昧な現代において殊に十戒を知ることの意味は大きいと思います。それは無条件で、してはいけないことを神の意志としてはっきり宣言し、告げているからです。
それでは律法や十戒を知らない私たち日本人はどういうことになるのでしょうか。
良心
パウロは律法を知るユダヤ人として神の律法と人間の惨めさ、悩みとの関係について、自らの告白として語りました。しかし、律法を知らない私たち日本人はどういうことになるのでしょうか。
パウロ、他ならぬ律法学者パウロがこんなことを教えています。「律法を持たなくても、律法の命じるところを自然に行えば、自分自身が律法なのです。そういう人々は律法の要求する事柄がその心に記されていることを示し、かれらの良心もそのことを証ししています」(ローマ2・14、15)。
さらに、パウロによりますと、自分自身のものである良心は、「自分を責めたり、弁明している」ものです。いいかえれば、律法なしにですが、律法にかなうような善をしなかった場合は、良心が自分自身を非難したり、咎めたり、あるいはその非難や咎めに対して良心は弁明したりする、というのです。自分自身を弁明するだけでなく、咎め、非難する良心はうずく良心でもあるでしょう。自分の惨めさ、悩みを知っている良心的な人はモーセの十戒や律法を知っている人に限らないのです。
その意味では部分的であるにせよ、律法はすべての人間に通用する人間のあり方を示し、告知しているといえるのではないでしょうか。
キリストは律法の終わり・目標
そのように律法、あるいは良心がすべての人間に通用し、理解できるものとすると、次にパウロが語ったキリストは神のみ心、意志である律法の終わり・目標というのは大変重要なことになります。というのは、パウロはあの惨めさ、悩みから救われ、そのキリストによって解放されたからです。
律法を説くキリスト
キリストは山上の説教において、直接十戒の説明をしています。その一例がマタイ5・21、22です。殺すなかれについてです。理屈なし、無条件に殺すなかれを前提にして、人を殺すとはどういうことか、説いておられます。腹を立てる、怒りが高ずると殺人を犯すことになります。そのようにキリストはまず殺しの基本的心理を指摘し、注意しています。ばか者と言うのは人間の人格、判断能力を否定することです。これは人格を尊重することを意味しています。人格の尊厳―人格を手段とせず目的とせよ―を語ったものです。愚か者というのは、無神論、不信仰者のことです。宗教や信仰についての他者批判を厳しく戒めたものであると思います。
キリストは神の義となられた
律法の終わり・目標を端的に表わしたものが、福音・キリストにおいて神の義が示されたということでした(ローマ1・17)。
神の義というのは理論や倫理の言葉では充分に説明できないものです。なぜならキリストご自自身が神の義であり、神のみ心であるというからです。むしろ、聖書はキリストを神の言葉と呼んで私たちに語りかけるキリストを証ししています。キリストは神の言葉であり、聖書は記された神の言葉、そして説教は語られる神の言葉なのです。それゆえ私たちは何よりもそのみ言葉に触れなければなりません。礼拝から礼拝へ、キリストに触れ、キリストを知り、キリストを受け入れること、それによってキリストへの信仰へと導かれることになります。キリストによって惨めさ・悩みから解放され、新しい生を歩むことを約束され、保証され、希望を与えられるのです。律法による非難・告発も良心のせめぎあい・葛藤もみ言葉を通した聖霊の働き―恵み―により、信仰によってはじめて救いに導かれるのです。それがパウロの救いの感謝なのです。
変わらざる恵みのうちに
最後になりましたが、私たちの問題は、パウロが語るキリストを通して神に感謝し、変わらざる恵みのうちに生きることです。キリストは私たちの良心の責め合いも望まない、悪を行うわたしたちの罪をも担って下さり、その代わりにご自分の神の義を私たちに与えて下さるのです。これが義とする、義を認めるということです。そこには私たちの罪の代償としてのキリストの贖いの十字架の死があります。また神の義によって義とされるので、神との平和、和解、アバ父よとの祈りが許されています。これらの恵みを私たちに注ぎ、私たちを生かし、導くのはみ父とみ子との聖霊です。聖霊の導きに従って前進することを願いつつ、修養会の時を過ごしたく思っています(ガラテヤ5・16以下、同22以下)。
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