2005年5月29日 聖霊降臨後第2主日礼拝
「測り知れない神の力」
コリントの信徒への手紙K4章5〜12節

宮庄 博(みやしょう ひろし)
銀座教会伝道師
1977年 大阪に生まれる
2005年 東京神学大学大学院を修了
銀座教会伝道師

 「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。」とパウロは、伝道者の務めを語ります。「キリストについて宣べ伝えている」とは言わず、「キリストを宣べ伝えている」と言います。それは、宣べ伝える人にとって、イエス・キリストというお方が、どのように存在しているかという問題です。もし、宣べ伝える人の中にキリストが存在していなければ、その人は、キリストについての知識しか伝えることができません。キリストそのものを宣べ伝えるためには、その人の中で生きて働かれるキリストが存在していなければ、伝道者としての務めを果たすことはできないのです。伝道者とは、自らの中でキリストが生きて働かれているその事実を宣べ伝えるのです。「キリストを宣べ伝えています」とは、キリストが自分自身の中で確かに生きて働かれているという確信の言葉なのです。

 「自分自身を宣べ伝えるのではなく」というパウロの言葉の背景には、コリント教会からの非難があります。「パウロは自分を誇るために宣教している」という声があったのです。確かにパウロが、「わたしに倣う者になりなさい。」と勧めている箇所があります。パウロの言葉は時に過激です。そのような非難の声が挙がっても仕方がないかもしれません。しかしそれは、パウロの伝道に向ける熱意の故に、このような表現が出てきたのだと思います。パウロは、自分を見るように言っているのではありません。自分を通して、働いてくださった主イエス・キリストに目を向けるように勧めているのです。

 その勧めは次の言葉を生み出します。「わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。」神の身分にある主イエス・キリストが、自分を無にして、僕の身分となられたのだから、私も喜んであなた方の僕になろう。パウロはそう言うのです。そういう意味で伝道者とは、主のために働く僕なのです。伝道者は、個人的に誰かの僕であるのではなく、教会に仕える僕です。パウロは、コリント教会の信徒に仕える僕になることによって、主に従うのです。

 伝道者は、個人的な思いで仕えているのではなく、パウロが、「イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」というように、主イエスのために、主イエスに導かれて僕になるのです。「イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」という言葉から、個人的な思いを超えたパウロの喜びを感じ取ることができます。

 僕としての務めは、神の憐れみなしにはできないとパウロは言います。パウロは、「わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません」(4章1節)、「もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです」(3章5節)と語っています。自分がキリストを宣べ伝える務めにあるのは、自分の力で獲得した資格ではなく、神の憐れみよって、その資格が与えられているということです。それは、パウロにとってかけがえのない経験、ダマスコでの回心の経験を思い浮かべて語っているのだと思います。パウロの回心の経験は、聖霊の力によって、価値観が全く逆になってしまうほどのとてつもない経験です。そのような経験を経ているからこそパウロは、自らを「土の器」と言うのです。

 私は大学を卒業したら、東京神学大学に入ろうと決めていました。しかし大学の四年生になった時、「こんな自分が牧師になったら、神さまに迷惑をかけてしまうのではないだろうか」と考えるようになりました。そして結局、私は「神学校には行かない」という決定を下しました。献身すべきかを悩んでいた時、私は自分を主に委ねることができていなかったのです。自分の力で何かができると思っていたのです。

 パウロは、自分のような者が伝道者として立てられているということは、測り知れない神の力が自分に注がれているからだと言います。またパウロは、そのような神の力を6節で「光」と表現しています。「光あれ」との言葉によってなされた天地創造の大いなる業が、自分を通してもう一度起こったかのように、パウロは自らの回心の経験を捉えています。神の偉大な力が、パウロに及んで、キリストを宣べ伝える伝道者として彼を召し出したのです。

 私が神学生の時に兄と大喧嘩をしたことがありました。「俺はまだお前の説教を神の言葉としては聞かれへん」と言ってきたことが原因です。そう言われた私はけんかを売られたのだと思い、神学的知識を総動員して、兄の間違いを説き伏せようとしました。しかし、全く通じませんでした。それは全く次元の違う話をしていたからでした。当時、婚約者だった妻は、私にその冷静な分析結果を話してくれました。「兄はけんかを売るためにあんなことを言い出したのではなく、心にしみるような説教のできる牧師になってほしいという気持ちを伝えたかったのだ。でも、照れ隠しで、あんな表現になったのだ」と言うのです。私はこの経験を通して、一つのことを教えられました。それは、語る者と聴く者とが、同じ思いになっていなければ、説教は成り立たないということです。聴く者が、心にしみるような説教を聴きたいと思っていても、語る者が、キリストそのものではなく、キリストについての知識を語っているのなら、説教は成り立たないのです。逆もまた然りです。語る者がどんなにキリストを宣べ伝えても、聴く者が、「あいつの話は、どうも聴く気になれない」と、耳を傾けようとしなかったら、これもまた説教は成り立たないのです。説教者は本来、語るに相応しくない者です。だからこそ測り知れない神の力が、説教者に及んでいることを信じて語るのです。語る者が「神の力」を信じて語り、聴く者も「神の力」を信じて聴く。そのようにして、説教は初めて「神の言葉の説教」となるのです。そういう意味で、説教は、語る者と聴く者の共同作業であると言えるでしょう。

 8、9節でパウロは、「○○であっても、○○しない」という表現を繰り返し用いて、二つのことを主張しています。その一つ目は、伝道者であるが故に、苦難を受けることもあるということです。「イエスは、キリストである」と公に語ることによって、四方から苦しめられること、途方に暮れること、虐げられること、打ち倒されることがあるとパウロは確かに認めています。しかし、その一つ目のことよりもさらに大きな二つ目のことは、そのような苦難によって、落胆してしまうことはないということです。それは4章1節で、「わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません」と言われている通りです。主なる神から憐れみを受けてこの務めに当たっているのだから私たちは、落胆することはない。パウロはそう言いたいのです。「測り知れない神の力」は、語るに相応しくない者に、語る務めを与え、苦難にも、落胆しない力を与えてくださるのです。天地創造の際に「光あれ」と言われた神は、その光をご覧になって、良しとされました。私たちも、自分たちに「測り知れない神の力」が及んでいることを信じ、私たちの歩みが主なる神に良しとされるものと信じ、歩んでいきたいと思います。



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