| 2006年1月22日 公現後第3主日夕礼拝 「主に従う喜び」 ルカによる福音書14章25〜33節 |
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「旅は道連れ、世は情け」という言葉があるように、旅とは基本的に楽しいものです。私たちも旅行の計画を立てる時、わくわくした気分になります。そして、綺麗なものを見たり、お土産を買ったり、美味しいものを食べたりして帰ってきます。 主イエスの宣教活動は、3年ほどだと言われています。そのほとんどを主イエスは、旅をして過ごされているのです。私たちの旅行と主イエスの旅には、本質的な違いがあります。 ルカ14章25節には「大勢の群衆が一緒について来た」とあります。大勢の群衆は、主イエスの旅について来ているのです。ここで「ついて来る」という言葉が用いられていることには意味があります。聖書では「ついて来る」と同じような行動を表す「従う」という言葉も使われています。同じような行動ではあるけれども、きちんと使い分けられている「ついて来る」と「従う」の違いに目を留めて、今日の箇所を読んでいきます。「ついて来る」とは「一緒に歩く」という意味の言葉です。一方の「従う」とは「弟子になる」とも訳すことのできる言葉です。その違いに注目しますと「一緒について来た大勢の群衆」とは、主イエスの弟子になって一緒に旅をしているのではなく、単に一緒に歩いているに過ぎないということが分かります。では、なぜこの「大勢の群衆」は、主イエスと一緒に歩いているのでしょうか。主イエスが彼らに「ついて来なさい」と仰せになったわけではありません。彼らは自分の自由な意志でついて来ているのです。彼らには、ある魂胆があるのです。「このイエスという人なら何かをしてくれるのではないか。」彼らはそう思ってついて来ているのです。その「何か」には癒し、教え、ローマの支配からの解放などの事柄が当てはまります。しかし主イエスのこの旅は、この世の王として君臨するためのものではありません。確かに、病気を癒し、教えもしましたが、それが最大の目的ではありません。主イエスの旅の最大の目的は、十字架におかかりなって人間の罪を赦すことです。主イエスの旅は、十字架へと向かう旅なのです。「何かをしてもらえるのではないか」という気持ちでついて来ている彼らとは全く質の異なる旅です。得るための旅ではなく、失うための旅なのです。 そのような彼らに対して、主イエスは弟子の条件とも言うべき言葉をお語りになります。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(26節)、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(27節)、「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(33節)。 なぜ主イエスは、弟子になることの厳しさを語られるのでしょうか。前の箇所からの文脈を見ると、主イエスがなぜこのような厳しいお言葉をお語りになっているかが分かってきます。14章15節から24節まで、「盛大な晩餐会のたとえ話」が記されています。神の国の食事に招かれた人たちは、様々な理由で「その食事にはいけない」と言って断るという話です。そのたとえ話は「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」と締め括られています。そのような前の箇所を受けて今日の箇所があります。その文脈で主イエスが「ついて来る群衆」に求めておられるのは、苦難をも厭わない主イエスに対するまっすぐな忠誠なのです。家族を憎むことではなく、それぐらいの覚悟を持って従ってくることを求めておられるのです。 今日の箇所には、2つのたとえが組み込まれています。「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか」(二八節)、「どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか」(31節)。これらに共通する点は、「今のことだけでなく、先のことまでよく考えなければいけない」ということです。ここをむ時、私たちは自らの信仰生活を今一度見直す必要があります。クリスチャンの平均寿命は3年ほどだと言われます。受洗してからに来なくなってしまうまでの期間の平均が3年だということです。受洗して長年に渡って信仰生活を続けている方々を合わせた上で、クリスチャンの平均寿命がたった3年なのです。この現実を私たちはどのように捉えれば良いのでしょうか。信仰を保ち続けている方がいる一方で、信仰に入ってすぐに、興味を失うかのようにして、教会から離れてしまう方も少なくないのです。信仰とは一時的な感情ではありません。今日の箇所で主イエスが一貫して求めておられるのは、一時的な感情で「ついて来る」のではなく、いかなる時も変わらない真っ直ぐな心を持って、「従ってくる」ようにということなのです。 今日の箇所は厳しさが目立ちますが、同時に大いなる慰めをも併せ持っています。それは奇しくも、一番読み飛ばしてしまいたくなるような箇所から見出すことができます。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(26節)。ある神学者は、「家族とは唯一、利益を求めない共同体である」と言いました。その人のことを誰よりも大切に思っているのが家族です。自分の家族に見返りを求める人などいません。家族への愛は無償の愛だからです。では、その愛を断絶してまで主イエスの弟子になることとはどういうことでしょうか。それは家族からの無償の愛をさらに上回る愛、キリストの変わることのない愛が約束されているということなのです。今日の厳しい御言葉の裏には、私たちに対する主イエス・キリストの溢れんばかりの愛があるのです。私たちは、その愛の故に安心して歩むことができるのです。 『こどもさんびか』に「主に従いゆくは」という讃美歌があり、主に従う「喜び」(1節)、「幸い」(2節)、「心強さ」(3節)が歌われています。家族に向ける愛を上回る愛が約束されているからこそ、主に従いゆくことが、喜ばしく、幸いで、心強いことなのです。キリスト者は、この喜びを日々かみ締めて、歩んでいくのです。私たちは毎週教会に集い、主に従いゆく喜びを再確認して、一週間を歩み始めるのです。 使徒パウロは「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったの」(Jコリント1章21節)と語っています。宣教という愚かな業によってこそ、信じる者の救いが可能となるのです。宣教をするのは、教会です。恵みによって召されたる者の集いである私たち教会は、伝道の業を主から託されております。しかし、私たちの伝道の業が「3年クリスチャン」を生み出すための活動であってはなりません。伝道を考えるその前に、まず私たちがまっすぐな信仰を持って、御言葉聞に聞き、祈って、従っていく者でありたいと思います。そこには必ず「主に従う喜び」があります。それこそが、私たちの信じる福音だからです。
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