2006年4月30日 復活節第3主日礼拝
「主を愛するとは」
ヨハネによる福音書21章1〜19節

宮庄 博(みやしょう ひろし)
銀座教会伝道師
1977年 大阪に生まれる
2005年 東京神学大学大学院を修了
銀座教会伝道師

 私たちは様々な場面で主からの愛を実感いたしますが、反対に私たちは主を愛していると言えるでしょうか。「あなたは私たちを愛してくださいます」と祈ることはあっても「私たちはあなたを愛しています」という祈りはあまり聞かれません。主イエスはペトロに「わたしを愛しているか」と問いかけておられます。それを私たちに向けられた問いかけとして捉え、私たちが主を愛するとはどういうことなのかを考えていきたいと思います。

 主イエスが十字架につけられてしばらくすると、弟子たちはティベリアス湖(ガリラヤ湖)の畔にいました。そこは彼らの故郷です。なぜ彼らはガリラヤに戻ってきているのでしょうか。「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(マタイ26章32節)という主イエスのお言葉を思い出したのです。主イエスは自分たちの到着を迎えてくださるという期待を胸にガリラヤへ向かったのです。しかし実際、ガリラヤに着いても迎えてくれる主イエスの姿はありません。ガリラヤでの主イエスとの劇的な再会を心待ちにしていたのに、それが叶わなかったのです。主イエスは約束を守ってくださらなかったと思い、落胆したペトロはいても立ってもいられなくなり「漁に行こう」と言い出すのです。ブランクはあったけれども、魚を捕ることは得意分野であり、自信があるのです。「わたしたちも一緒に行こう」と他の弟子たちも賛同し、漁に出かけます。

 「しかし、その夜は何もとれなかった」のです。主イエスにも会えない。魚も捕れない。自分たちはどうすればいいのだろうか。茫然自失の彼らに向かって「子たちよ、何か食べる物があるか」と呼びかける声が聞こえます。誰の声なのかは分かりません。「ありません」と答えると「舟の右側に網を打ちなさい」と言われます。彼らはその通りにします。舟の右側に打ったその網を持つ手には、手応えが伝わってきます。漁師だった頃、味わったことのある手応えです。網を引き上げることのできないほど(153匹)の魚がかかっていました。自分たちの力では全くの失敗に終わったけれども、この方のお言葉によっては大きな収穫をもたらした。この方はどなたなのか。そこで一人が叫びます。「主だ。」その声を聞いたペトロもようやく気付き、上着をまとって飛び込みます。200ペキス(約90m)を舟で行くよりも泳ぐ方が早いと思ったのです。一刻も早く主イエスの元へ駆けつけたかったのです。

 「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。」主イエスは夜明けになってようやく岸にやって来られたのではなく、もう既にそこにおられたのです。ただ弟子たちが主イエスの存在に気付かずにいただけなのです。主イエスは約束通り、ガリラヤへ来られていたのです。しかし彼らが劇的な再会を求めるあまりに、既にいらっしゃる主イエスのお姿を見出す視点を失っていたのです。劇的な出会い、奇跡的な体験の前に、主は私たちのそばにいらっしゃるのです。その存在を認めることが信仰なのです。主イエスは弟子たちと一緒に朝の食事をすることになり、いつもの仕方でパンと魚をお分けになりました。いつもそうしていたように食事をするのです。劇的でも奇跡的でもなく、いつもの食事で弟子たちは主イエスとの再会を実感するのです。

 主イエスは三度ペトロに「わたしを愛しているか」と問いかけます。その回数はペトロが「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」と問われて「違う」と否定した回数とも等しいものです。「わたしを愛しているか」という三度の問いにペトロは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」とそれぞれ答え、三度目には「悲しくなった」のです。なぜペトロは三度同じ質問をされて悲しくなったのでしょうか。自分の思いが伝わらないから悲しくなったのでしょうか。そんな単純なことではありません。主イエスからの「わたしを愛しているか」という三度の問いによって、自分が三度主イエスを否んだことを思い出したからです。「お前もあの男の弟子の一人ではないのか」とは主イエスを愛する者であるかを確かめる問いです。その問いにペトロは三度も「違う」と答えたのです。それを思い出し悲しくなったのです。ペトロは三度も主を否んだけれども赦され、「わたしの羊を飼いなさい。」と命じられたのです。このガリラヤ湖で主イエスから「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われて主イエスに従ったペトロが本当の意味で、「人間をとる漁師」になったのは、この時だったのではないでしょうか。153匹もの大きな魚のかかった網の手応えがペトロに人間をとる漁師としての手応えを思わせたのです。

 「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。」自分の好きなように生きていたペトロ。それは主イエスの弟子になってからも本質的には変わっていませんでした。「あなたのためなら命を捨てます」とまで大見得を切り、自分の考えで主を否み、自分の考えで自由に行動していました。しかし主イエスはペトロに「行きたくないところへ連れて行かれる」時が来ることを告げます。迫害・殉教の時です。それが主の羊を飼う者の務めだ、と主イエスはおっしゃるのです。それまでペトロはわがままな羊でした。そのペトロが羊飼いに命じられたのです。この日はペトロにとって忘れられない日となったのです。今日の箇所でペトロは本当の意味での「羊飼い」、「人間をとる漁師」に変えられたのです。

 教会員の方の言葉が私の心に残っています。その方は子育てを始めた私に「もう慣れましたか」と声をかけてくださいました。慣れないことだらけですので「悪戦苦闘しています」と答えました。そうしましたらその方は「宮庄先生のご両親も同じように悪戦苦闘をされたんですよ」とおっしゃいました。「確かにそうだなぁ」と思わされました。「子を持って知る親の恩」という言葉があります。それまでも両親には感謝をしていましたが、その方の言葉によって、深く感謝することができるようになりました。主イエスがペトロを、羊飼いとして任命された今日の箇所を読んだ時に、私はその方との会話を思い出しました。羊が羊飼いになった時初めて、自分が羊だった時の羊飼いの有り難さが分かるのです。

 「主を愛するとは。」今日の箇所から3つのことが言えます。第1に、劇的・奇跡的体験ではなく、普段の生活の中に主の存在を認めること。第2に、幾度となく主を否んだペトロをも赦し、羊飼いとして召してくださったように、相応しくないと思えるような自分をも用いてくださる主に従って奉仕すること。第3に、羊が羊飼いとしての務めに従事することによって、真の羊飼い主イエス・キリストからの恵みを深く知ることです。主の存在を近くに感じ、奉仕を通して、主の恵みに感謝する。この3つが、今日の箇所から教えられる「主を愛する」ということなのです。

 私は主を愛する皆さんの協力を得て、キリストの福音のために励んでいきたい。そこには153匹もの魚がかかった網から伝わってきた手応えと同じように、「人間をとる漁師」としての手応えが必ずあるからです。





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