| 2007年9月9日 聖霊降臨後第15主日礼拝 「心の戸を開けよう」 詩編27編7-10節、ヨハネの黙示録3章14-22節 |
||||||||
トントントン。ノックの音が聞こえます。私たちの心の戸をノックする方がいらっしゃるのです。大きな釘の跡のある手で、私たちの心の戸をノックする方がいらっしゃいます。本当はノックして開けてもらわなくても、入ってくることのできる方です。それでもその方は、敢えて私たちの心の戸をノックして、私たちが自分の意志で開けるのを待っておられるのです。家の中でノックの音を聞いている私たちはどうすればいいのでしょうか。二つの選択肢があります。 一つ目は、ノックに応じて戸を開けること、具体的には祈ることです。『祈りの世界』(O・ハレスビー)は、黙示録三章二○節の引用から始まり、「聖書全体の中で、このみことばほど祈りの本質について明らかに示してくれるものはないでしょう。このみことばは祝福された祈りの世界への扉を開ける鍵と言えます。祈るとは心を開いてイエスをお迎えすることです。……まずイエスが心の扉をたたかれるのです。イエスが、私たちの心の中に入りたいと知らせてくださるのです」と書き始められています。私たちは主イエスのノックの音に促されて、祈りへと導かれていくのです。 二つ目は、居留守を使うことです。居留守は良くないと誰もが知っていますが、私たちはしばしば居留守を使うのです。そういう態度を主イエスは「なまぬるい」(黙三章一六節)と表現なさっています。ラオディキアの町は商業都市として栄えていました。裕福な町の中にあるラオディキア教会も、裕福だったようです。そういう状況が、教会の人々に信仰的ななまぬるさを生じさせていたようです。ラオディキア教会は、経済的には豊かであったけれども、信仰的には「惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者」(黙三章一七節)になってしまっていたのです。そこで主イエスはこの手紙を通して、教会の人々を教育し、悔い改めへと導こうとされるのです。そうして、ノックの音に居留守を使っていたなまぬるい者たちも、祈りの生活へと促されていくのです。 ノックに応じて祈っている人がいます。詩編の詩人です。詩編二七編は、非常に興味深い詩編で、一〜六節と、七節以降で、大きく口調が違います。一〜六節は「向かうところ敵なし」というような口調で語られています。ジャンルに分けるなら「神への信頼の歌」に区分されるでしょう。それが七節に入りますと急に口調が変わり、弱気になります。こういう詩編は、「嘆きの歌」に分類されます。一つの詩の中に、「神への信頼の歌」と「嘆きの歌」とが混在しているのは別々の歌をくっつけたからではないか、六節までの詩人と七節以降の詩人は別人なのではないかという学者もいるほどです。しかしこういう二つの側面があることが、人間らしさを表しているように思います。強気で感謝の祈りをささげていた人が、一転して弱気になって「助けてください」と祈るようになるということは、私たちにもよく見られることです。私たちへの慰めは、主なる神が私たちの嘆きを確かに聞いてくださるということです。他の人は、自分の嘆きを聞いてくれないかもしれませんが、どんなことがあっても主なる神だけは、耳を傾けてくださるのです。「父母はわたしを見捨てようとも、主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。」(詩二七章一○節)父母に見捨てられるというのは極限の状態です。普通に考えて、親は子どもを見捨てるようなことはしないのです。仮に親が子どもを見捨てるというようなことがあっても、主なる神だけは決して私を見捨てないと歌っているのです。これが祈ることを知っている者の最大の強みです。七節以降で口調は変化しますが、主なる神を信頼するという姿勢は、詩編二七編を貫いているのです。私たちの人生は、山あり谷ありです。いつも主なる神に対する信頼を失ってしまわないことが大事です。「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。」(詩二七章四節)主の家に宿って、その宮で朝を迎えることと、ノックの音を聞いて、主イエスをお迎えすることは、神との親しい交わりという点で共通しています。他の何も要らない。主なる神との交わりだけがあれば、それでいいのだというのです。この決意は、マルタとマリアの物語を思い起こさせます。主イエスの話に聞き入り、もてなしの手伝いをしないマリアにマルタは不満を抱いていました。主イエスは、マリアを注意するのではなく、マルタに「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」とおっしゃいました。「必要なことはただ一つだけである」と「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう」とは同じものを指しています。主との親しき交わりが、ただ一つの必要なことなのです。 洗礼を受けるという心の戸の開け方もあります。まだ洗礼をお受けになっていらっしゃらない方々に申し上げます。あなたの心の戸をノックしてくださる主イエス・キリストは、あなたが心の戸を開けて、洗礼を受けることを望んでいらっしゃいます。ノックの音が聞こえているのに、聞こえていない振りをしてはいないでしょうか。洗礼に興味のない人が、洗礼へと導かれる奇跡は、主イエスが、心の戸をノックしてくださっているからこそ可能なのだと思います。洗礼を受けていらっしゃらない方は、聖餐式の時にもしかしたら、疎外感を覚えていらっしゃるかもしれません。洗礼を受けた人だけが、恵みの座に出てきて、聖餐のパンと杯に与ることができるからです。しかし、よく考えてみてください。疎外しているのは誰でしょうか。主イエス・キリストでしょうか。牧師でしょうか。教会員でしょうか。どれも違います。「洗礼を受けなさい」と促すノックの音が聞こえているのに、戸を開けることを拒んでいるのであれば、疎外しているのは、その人自身であり、主イエス・キリストが疎外されていることになります。心の戸を開けて、主イエスをお迎えしましょう。 心の戸の開け方にはさらにもう一つの方法があります。聖餐のパンと杯を感謝の気持ちで受け取るということです。黙示録で「わたしと共に食事をするであろう」と言われているのは、神の国での食事です。私たちは、神の国での食事のことを思い浮かべながら、予行演習として聖餐式を行うのです。ある教会で、洗礼を受けているのに、パンと杯を受け取らないという人がいると聞きました。「一ヵ月間、神さまに背いて生きてきたから、私には聖餐のパンと杯に与る資格がないんです。」それが受け取らない理由だそうです。一見謙遜な態度のように見えますが、それは、決して謙遜ではありません。洗礼を受けているのに、聖餐式のパンと杯を受け取らないということは、心の戸をノックしてもらっているのに、居留守を使うのと同じことです。一緒に食事をしようと、主イエスが尋ねてきてくださっているのに、それを無視することなのです。私たちのために、肉を裂かれ、血を流された主イエス・キリストの十字架の業に感謝しながら、聖餐のパンと杯に与ることが、心の戸を開けることになるのです。 トントントン。ノックの音が聞こえます。さぁ、皆さん、心の戸を開けて、主イエス・キリストをお迎えいたしましょう。
|
||||||||