2008年1月13日 公現後第1主日
「キリストの受洗」
マタイによる福音書3章13-17

宮庄 博(みやしょう ひろし)
銀座教会副牧師
1977年 大阪に生まれる
2005年 東京神学大学大学院を修了
銀座教会伝道師(2007年12月より副牧師)

 ここはヨルダン川の畔の荒れ野です。都市から遠く離れた未開発の土地です。そこに一人の野人がいました。洗礼者ヨハネです。彼は、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締めていました(マタイ三章四節)。文化的とは言えない場所に、文化的とは言えない風貌の男がいたのです。ヨハネは悔い改めの説教をし、悔い改める者に洗礼を授けていました。ヨハネから洗礼を受けようと行列ができていました。ヨハネは、罪を見抜く力を持っていました。その罪から生じる冷酷な結果も知っていました。罪を犯す者に、罪の結果が跳ね返ってくることを知っていたのです。ですから彼は、回心を呼びかけ、悔い改めを呼びかけるのです。しかしヨハネは、自分の授ける洗礼の限界をも知っていました。自分が授けている洗礼を、準備のための洗礼だと理解していたのです。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(同一一節)。自分は前座に過ぎないとヨハネは弁えていたのです。

悔い改めの洗礼を授けるヨハネの元に、大勢の群集が集まっていました。その群集の中に、主イエス・キリストも含まれていました。主イエスの番になった時、ヨハネはその手を止めます。自分の待っていたお方が、目の前にいらっしゃるからです。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(同一四節)とヨハネは、主イエスに洗礼を授けることを躊躇します。それはもっともなことです。ヨハネは罪を見抜く力を持っていましたが、主イエスからは罪を見出せなかったのです。

結局、主イエスは、ヨハネを説得して、洗礼をお受けになるわけですが、どうして主イエスはヨハネから洗礼をお受けになったのでしょうか。

主イエス・キリストがヨハネから洗礼をお受けになったということは、主イエスもやはり一人の人間であって、罪を犯していて、悔い改めの洗礼を受ける必要があったということだ考える人もいるでしょう。しかし、それは間違った聖書解釈です。もしそうであれば、ヨハネが断ることはなかったでしょう。主イエス・キリストは、神の御子であり、罪のないお方です。洗礼を受けて、罪を清めてもらう必要はありません。では、主イエスの受洗には、どういう意味があるのでしょうか。

ヨハネから洗礼をお受けになった主イエスに、神の霊が鳩のように降ってきました。この出来事は、ペンテコステの出来事を思い起こさせます。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、?霊?が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒二章三〜四節)。使徒たちに聖霊が降って、最初の教会が誕生したように、主イエスが受洗なさったこの時、ヨハネによる悔い改めの洗礼は、新しい意味を持ちました。ヨハネの洗礼は、準備のための洗礼でした。後から来られる方を悔い改めて待つための洗礼でした。しかし今や、待つべきお方が来られたことを、神の霊、聖霊が鳩のように降ったことから知らされたのです。

「そのとき『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(マタイ三章一七節)。この言葉は、旧約聖書の二つの箇所に由来すると考えられています。詩編二編七節「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ」とイザヤ書四二章一節「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す」です。前者はイスラエルで王が即位する時に歌われたもので、後者は主の僕の歌です。主イエス・キリストが、王でありながら、僕であるということがここで確認されているのです。主イエスは、ヨハネから敢えて洗礼を受けることによって、罪人のレベルにまで下られたのです。

私たちの教会で行われる洗礼式には水が用いられます。そうだからと言って、私たちの受ける洗礼と、ヨハネが授けていた洗礼とが同じであると考えてはなりません。私たちの受ける洗礼は、聖霊による洗礼だからです。ペンテコステの直後、ペトロは説教を始めました。その説教を聞いて心打たれた人が、ペトロに「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」(同三七節)と問いかけています。その質問に対してペトロは、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(同三八節)と答えているのです。悔い改めて、洗礼を受けた者は、聖霊を受けるのです。私たちは洗礼を受ける時、水を用いますが、そこに聖霊が働いてくださるのです。

洗礼を受けたけれども、迫害に屈して、キリスト教を捨ててしまった人が、もう一度教会に戻りたいと願い出た時に、教会はどういう対応をするべきかということが問題になった時代があります。現代の教会でも、不信仰な生活や怠惰な生活をしていた人が、心を入れ替えて戻ってくるということが考えられるでしょう。一度キリスト教を捨ててしまったのだから、教会に戻る時には、洗礼を受け直すべきではないかという考えがありました。しかしそれは間違いです。たとえ、キリスト教を捨てたり、不信仰であったり、怠惰であったとしても、受洗した時に受けた聖霊という賜物を、なかったことにはできないからです。どんな生活を送ってきたとしても、洗礼は一度きりなのです。

ではどうして教会の洗礼式には水が用いられるのでしょうか。それは古い自分を死なせるためです。ノアの箱舟の物語で、主なる神は罪にまみれた人々を、大量の水をもって死なせました。そして、ノアを始め、箱舟に乗った人々に、新しい生き方をするように勧めました。

洗礼は、罪にまみれた自分を一度死なせ、新しい生き方を始めるために行われます。

主イエスは、「わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」(ルカ一二章五○節)とおっしゃっています。主イエスは、ヨハネから洗礼を受けたのに、まだ受けなければならない洗礼があるというのです。主イエスが受けなければならないとは十字架です。主イエスは十字架の上で息を引き取られる直前に「成し遂げられた」(ヨハネ一九章三○節)とおっしゃっています。それは、受けなければならない洗礼が成し遂げられたことを意味しています。そのことを受けて使徒パウロは「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました」(ローマ六章三〜四節)と語っています。どの福音書を見ましても、主イエスや弟子たちが洗礼を授けたという記事は見つかりません。十字架によって洗礼が成し遂げられる時まで授けるべきではなかったからです。主イエスは復活なさった後、弟子たちに洗礼を授けることをお命じになったのです(マタイ二八章一九節)。そのお命じに従って、教会は受洗者を生み出すために、伝道に励むのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






All Rights Reserved, Copyright Ginza Church.1999-2006.