2008年4月20日 復活節第5主日
「あなたの信仰があなたを救う」

マタイによる福音書9章18-31節


宮庄 博(みやしょう ひろし)
銀座教会副牧師
1977年 大阪に生まれる
2005年 東京神学大学大学院を修了
銀座教会伝道師(2007年12月より副牧師)

「あなたの信仰があなたを救った」という主イエスの御言葉は、正しく理解しなければなりません。厳密に言いますと、あなたの信仰があなたを救うことはありません。人間は、自分の救いを自分の信仰によって、実現することはできないのです。救いを実現することができるのは、キリストだけです。信仰を認め、憐れみを向けてくださるキリストだけが、救いを実現することのできるお方なのです。今日の箇所では、四人の人が、その信仰の故に、癒されたり生き返らされたりしています。もちろん彼らの信仰は大きなテーマです。しかし、彼らの信仰が全部なのではなく、彼らの信仰を認めてくださり、憐れみを向けてくださった主イエス・キリストのことを、忘れてはならないのです。

最初に主イエスの元を訪れたのは、「ある指導者」(会堂長ヤイロ)です。彼は、主イエスの元に来てひれ伏し、「わたしの娘がたったいま死にました」という報告をします。しかし続けて「でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」と主イエスに言いました。彼は主イエスに、復活の力を求めているのです。主イエスは、彼の信仰を認めてくださり、彼の家に向かうことになりました。

一行が彼の家に向かう途中、一人の女性が近づいてきました。彼女は主イエスの後ろから近づきました。正面から願い出ることができないのは、彼女が長血という病気を患っているからです。律法によりますと、この病気を患っている人は、汚れていると見なされたようです。他人に触れることは許されないのです。彼女は、もう12年間もこの病気に苦しんでいました。その女性が主イエスに近寄り、主イエスの服に触れました。明らかな律法違反です。それは、かなりの勇気を必要とする行為です。人に触れたら罰を受けなければならないからです。罰を覚悟で、主イエスに近づいたことに、彼女の信仰が表現されています。主イエスは振り向いて、彼女と向き合ってくださいました。これまで12年間、彼女は人々から除け者にされてきましたが、主イエスは顔と顔を向き合わせて、彼女に心を傾けてくださったのです。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と信じる彼女の信仰を、主イエスが認めてくださったからです。「『娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。』そのとき、彼女は治った。」癒されたタイミングに注目してください。服に触れたから治ったのではないのです。主イエスの御言葉によって癒されているのです。彼女の信仰を認め、憐れみを向け、御言葉を与えてくださったからこそ、彼女の癒し・救いは実現したのです。

ヤイロの家に到着した時、そこには群衆がいました。主イエスは彼らに、「『少女は死んだのではない。眠っているのだ』」と仰せになりました。それに対して、彼らは主イエスをあざ笑いました。喪主であるヤイロが戻り、「さぁ、葬儀を始めよう」という時に、「『少女は死んだのではない。眠っているのだ』」と言い出す人がいれば、「何をばかげたことを言うんだ」と笑いがこぼれるというのは、不自然な話ではありません。常識で考えれば、誰もがそういう反応を示すのです。この後、主イエスは、この群衆を外に出されます。その時、主イエスが外に出されたのは人々だけではありませんでした。人々の常識を外に出されたのです。その家を、人間の常識に基づかない、奇跡の場所となさったのです。そして少女は、生き返ることができました。主イエスによる復活の力を信じ、ひれ伏したヤイロの信仰を認めてくださり、憐れんでくださったのです。

次に二人の盲人が来ました。彼らは、「『ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください』」と言いながら、一行について来ましたが、主イエスは、すぐには癒しをなさいませんでした。どうしてでしょうか。冷たい態度だと思うかもしれません。主イエスは、彼らの信仰を確かめようとなさったのです。彼らは盲人ですから、主イエスのお姿を見ることができません。「ついて来た」と簡単に書かれていますが、ついていくのは、目の不自由な彼らにとって大変なことです。声や足音を頼りに、必死になってついて来たのです。そんな彼らの信仰を、主イエスはご覧になり、「『わたしにできると信じるのか』」と信仰を確認する問いをされました。その問いに対して「『はい、主よ』」と信仰の告白をした彼らの信仰を、主イエスは認めてくださり、憐れみを向けてくださり、癒しの御手を差し延べてくださいました。

こういう癒しや生き返りの奇跡物語を読みますと、釈然としない気持ちに襲われます。聖書の時代と現代とに隔たりがあるからです。主イエスの時代の人は、主イエスに直接助けを求めることができたけれども、現代を生きる私たちはどうすれば良いのかということになります。そこで私たちに教えられている方法は、祈りです。信仰に基づいて、癒してくださる主に祈りをささげるのです。しかし現実的に考えますと、祈ったら病気が全部治るわけではありません。病気が治らずに、死を迎えなければならないという現実があるのです。

10年ぐらい前、私の幼なじみがバイクの事故で亡くなりました。彼の両親は熱心なクリスチャンです。最愛の息子の死を両親はどう受け止めたのでしょうか。「息子を生き返らせてください」と祈りたくなったことでしょう。実際にそういう祈りをささげたかもしれません。しかしその祈りが実現することはありませんでした。この両親の信仰が、今日の聖書の箇所の登場人物たちの信仰に劣っているから、祈りが実現しないのでしょうか。そうではありません。祈りが実現しない理由は、二つ考えられます。

一つ目は、祈っていることが主の御心に適っていないということです。私の知り合いの牧師は、手術時の麻酔の不具合で、術後も、手足に痛みやしびれを覚えるようになりました。「どうして私がこんな目に遭わないといけないのですか」と嘆きの祈りをささげたことでしょう。しかしその牧師は私にこう言いました。「痛みの分かる牧師になれたから、良かったと思ってるんだ」と。誰が考えてもマイナスだと思えるようなことが、神の御心であることもあるのです。そういう意味で、私たちが祈る際に、「御心ならば」と祈ることは大切なことなのです。

二つ目の理由は、人間の常識の殻の中で祈っているということです。主の奇跡は、私たちの常識を超越したところで行われます。それを信じることなしに祈っている間は、その祈りが実現することはないのです。

亡くなった幼なじみの兄が、弟の葬儀の中で、讃美歌332番を独唱しました。「主はいのちをあたえませり、主は血しおをながしませり。その死によりてぞわれは生きぬ、われ何をなして主にむくいし。」その讃美の歌声の中に、私は彼の信仰を見ました。「神は弟の命を奪った」と恨んでもおかしくないような場面で彼は、「主はいのちをあたえませり」と歌ったのです。弟は洗礼を受けていたのです。神の国に入れられると信じていたのです。弟の死を、彼は信仰的に受け止めたのです。

人生の危機を信仰的に乗り越えていけるのは、幸いなことです。信仰は、聖霊なる神が与えてくださるものです。私たちの祈りを聞いてくださる主は、私たちに最も良いものを与えてくださるのです。信仰が増し加えられるように、日々、祈り続けてまいりましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 






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