2008年9月21日 聖霊降臨後第19主日
「信仰の家族」

マタイによる福音書12章46-50節


宮庄 博(みやしょう ひろし)
銀座教会副牧師
1977年 大阪に生まれる
2005年 東京神学大学大学院を修了
銀座教会伝道師(2007年12月より副牧師)

キリストの招きを受け、教会で洗礼を受けることによって、人は信仰の家族に加えられます。主イエスは、十字架と復活の出来事によって、血縁関係も、貧富の差も、社会的身分の差も超えた信仰の家族を形成してくださったのです。教会は、キリストを長子とする兄弟姉妹の群れなのです。

私は聖餐式の時に、洗礼を受けたばかりの人を見つけることを楽しみにしています。生まれて初めて聖餐に与るというのは、一生に一回しかないことです。洗礼を授けられ、信仰の家族に迎え入れられたことを、味わい知る瞬間です。信仰の家族とは、聖餐の食卓を共にする家族なのです。キリスト者は教会で、信仰の家族と共に、神の国での食卓を想いながら、聖餐のパンと杯に与るのです。

主イエスが、群衆に囲まれ、神の国の福音をお語りになっていた時、そこに、母マリアと主イエスの弟たちが、やって来ました。「話したいこと」があったからですが、どういうことだったのでしょうか。三つの可能性があります。第一に、マルコ3・21には「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」とあります。主イエスは、その大胆な行動や発言から、「気が変になっている」と思われていたのです。家族もその噂を信用していたようです。「また変なことをしでかすのではないか」と心配になり、取り押さえに来たのかもしれません。第二に、そういう厄介者としてではなく、家族としての労りから、ストレスで精神的にまいっている主イエスが、一人になって療養した方が回復できると考えて、それを伝えに来たのかもしれません。第三に、安息日の律法を破って、癒しをなさった主イエスに対して、ファリサイ派の人々は、敵意・殺意を抱いていました。その噂を聞きつけた家族が、主イエスを危険から守るために、助言しに来たのかもしれません。家族が来ているのを伝えに来た人に対して、主イエスは「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」とお答えになりました。この返答は、この人にとって想定外でした。家族なのに分かってもらえないというのは、本当に辛いことです。主イエスの家族は、周りの人々から、「あの男は気が変になっている」と言われ、それを信用してここにやってきたのです。この主イエスの返答は、「とうとう私たちのことまで分からなくなってしまったのか」と思わせたかもしれません。

続けて主イエスは、ご自分を取り囲んでいる弟子たちを指して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と仰せになりました。「指して」(49節)という言葉は、「手を伸ばして」とも訳すことができますので、主イエスは、弟子たちに手を伸ばして、肩に手を置かれたのかもしれません。血の繋がりのないに彼らに手を伸ばして、「ここにこそ、『わたしの母、わたしの兄弟』がいるんだ」とおっしゃったのです。

十戒の中に「あなたの父と母を敬え」という戒めがあります。この会話をもしファリサイ派の人々が聞いていたら、安息日律法だけでなく、「父母を敬え」という律法をも、軽んじていると思われたことでしょう。そうなれば、律法を乱す者として、ファリサイ派の人々の主イエスに対する敵意・殺意は、さらに激しくなるでしょう。

なぜ主イエスは、こんなことを仰せになったのでしょうか。「この世の家族のことなど、どうでもいい」という意味で、主イエスはこんなことをおっしゃったのでしょうか。46〜47節には「外に立っていた」という言葉が二度使われています。主イエスを取り囲むようにして、弟子たちの輪ができていました。神の国の福音を聞く者たちの輪です。母マリアと主イエスの弟たちは、その輪の外に、立っていたのです。母マリアと弟たちはこの時、主イエスが手を伸ばしても届かないほどに離れていたのです。信仰的に距離があったのです。家族であっても輪の外にいるべきではない。中に入りなさい。そういう意味を込めて主イエスは、近くにいる弟子に手を延ばして、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と仰せになり、「さぁ、この手の届くところに来なさい」と招いてくださったのです。「お前たちなど知らない」とおっしゃったのではないのです。主イエスは、信仰の輪、信仰の家族の中に入るように、母マリアと主イエスの弟たちを促されたのです。

先日、初めて都電に乗りました。妻と娘は既に、乗ったことがあり、私に「チンチン電車、楽しいよ」と言っていましたが、私は「所詮、路面電車でしょ」と、あまり期待をしていませんでした。しかし実際に乗ってみますと、私は都電に魅せられてしまいました。娘を妻に預けて、一番よく景色が見える席を陣取ってしまうほどでした。

中に入ってみないと、分からないことがあるのです。外に立っているだけでは、その魅力を本当に、理解することはできないのです。主イエスを取り囲む信仰の輪もそうです。外に立っていたのでは、分からないことがあるのです。中に入って、初めて分かることがあるのです。洗礼を受けていなくても、キリスト教や聖書に詳しい人がいます。そういう人は、キリスト教や聖書について、あれこれ分析をしますが、それは、「所詮、路面電車でしょ」と乗りもしないで決めつけていた私と同じことです。中に入らなければ、キリスト教の奥義、聖書の真理を知ることはできないのです。

信仰の輪の外にいる人が、まだまだたくさん残っています。家族で自分だけが教会に行っているという人も少なくないと思います。家族伝道は、日本の教会の抱える大きな課題の一つです。主イエスは、ここで、一見突き放すようではありますが、家族への伝道をなさっているのです。家族は、最も近くにいる隣人です。先に「信仰の家族」へ入れていただいた私たちは、最も近い隣人への伝道を託されているのです。

家族への伝道について「夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです」(ペトロの手紙一3・1)という御言葉に聞きましょう。内容は夫と妻が逆の場合も同じです。配偶者を始め家族を信仰に導くには、「無言の行い」が重要なのです。伝道の対象に対して、言葉をあれこれ駆使しようとすると、期待の大きさのために、思わず感情的な言葉遣いになってしまうのです。自分の思うようにいかないと、つい言葉が激しくなってしまうのです。それでは逆効果です。「無言の行い」が大事なのです。喜びを持って信仰生活を送っている姿を家族に見せてください。キリスト者として生きる喜びを示してください。長く教会生活を送っていれば、時には教会の愚痴をこぼしたくなることもあるかもしれません。しかしその愚痴が、家族を教会から遠ざけてしまうかもしれません。愚痴は牧師にこぼしてください。教会の外にいる人にとってみれば、教会は、入りにくい場所なのです。ぜひ、入りやすくしてあげましょう。輪の中に入らないと、本当の恵みは分からないからです。

「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」「天の父の御心」とは全ての人が、キリストを受け入れ、洗礼を受けて救われることです。その「御心」を行うために、私たちの愛する隣人のために、喜ばしき「無言の行い」を示してまいりましょう。そして、その人たちが信仰の家族に加えられるように、祈り続けましょう。



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