| 2000年5月21日 復活節第5主日礼拝説教 「重荷を負う者」 マタイによる福音書11章25-30節 |
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今日の御言葉には、主イエスによる招きと命令が示されています。それぞれに約束が伴っています。招きは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」、それに伴う約束は「あなたがたを休ませてあげよう」です。命令は「わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい」、約束は「安らぎが得られる」です。招きと約束は「信仰義認」、命令と約束は「聖化」を示しているということができます。わたしたちは罪人のままに赦され、主のもとに憩うことができるのです。しかし、罪人のままに留まるのではありません。信仰の幼子は成長し、御国に迎えられるのふさわしい者へと造り変えられるのです。それが聖化で、主イエスのくびきを負い、主と共に歩むときに与えられるのは、確かな道を歩んでいるとの安らぎです。 この時代の重荷 重荷について語る必要はないかも知れません。わたしたちはみな負いきれない重荷にあえいでいるからです。マタイの教会の時代、人々はどのような重荷を負っていたのでしょうか。17節に当時の子供たちの、結婚式ゴッコ、葬式ゴッコの歌が記されています。笛を吹いても喜び踊ってくれず、歌っても悲しんでくれないというのです。ローマの信徒への手紙12章15節に「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」とありますが、人々は孤立し、一人苦しんでいたのです。ヨハネが禁欲的な生活をしていると、悪霊に取りつかれていると言い、イエスが罪人と食事を共にしていると大食漢で大酒のみだと嘲っていたのです。「われわれに課せられたものの中で何が過酷であろうとも、愛はそれを軽くする」とアウグスティヌスは述べています。わたしたちに課題が与えられているのは喜ばしいことです。しかし、孤立し、理解されないときにそれは耐えきれない重荷となりその人を疲弊させてしまう。いつの時代も変わらない、愛のない世の姿です。 くびき くびきというのは、農夫が畑を耕すときに2頭の家畜を結びつける道具です。板の中央に鋤がくくりつけられ、両脇にそれぞれ二つ穴があけられ、ハの字型に棒が通され、家畜がそれを背負うのです。棒の下は紐で結ばれ固定されます。家畜は孤独ではなく、離れることなく結ばれて、共に重荷を担うのです。申命記22章10節には「牛とろばを組にして耕してはならない」、コリントの信徒への手紙2、6章14節「信仰のない人々と一緒に不釣り合いなくびきにつながれてはなりません」と記されています。くびきを誰と負うかが大切です。 柔和で謙遜な方 わたしたちは孤立して苦しんでいるかも知れません。しかし、主の招きに応え、主と共に歩むときに、もはやわたしたちは孤独ではなく、荷は軽くなり、安らぎが与えられるのです。柔和とは、愛のうちに他者を受け入れる態度です。謙遜とは愛のうちに他者のために自分自身を後退させる姿勢です。「あなたが高い建物を建てようと思うなら、まず第一に謙虚という基礎を考えるがよい。基礎を掘り起こす者は、深淵の奈落に降りてゆかねばならない。」「もしあなたが神の高さを理解したいなら、まず最初に神の低さを理解しなさい。」これもアウグスティヌスの言葉です。 罪人たちの仲間に入って洗礼を受け、わたしたちのために十字架への道を歩まれた主イエスこそ柔和で謙遜な方、わたしのくびきを負いなさいと招き、わたしたちの重荷をご自身の軽い荷として担ってくださる方なのです。 主イエスの祈り 25節から27節は主イエスの祈りです。父なる神をほめたたえてこう祈ります。「これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」幼子は全てを親に依存します。知恵ある者や賢い者は自分の力で解決しようとします。 幼子のようにならなければ 一つの反省があります。しばしば初めての方が問題を抱えて牧師に相談に来られます。その時、忠告したり、アドバイスしたりしすぎているのではないかということです。悩み苦しむその人の言葉に集中し、アウグスティヌスの言葉を借りれば「深淵の奈落に降りてゆかねばならない」のではなかったか。既にそこにいてくださる主イエスに、真の解決者であられる主に、すべてを委ねなければならなかったのではないかということです。相談を受けている者自身が事態の深刻さの前に無力な者であることを自覚し、くびきを共にし、共に救われることを求めて祈らなければならなかったのではないかと思うのです。クリスチャン医師の日野原重明先生がその著「死をどう生きたか」で、医師としての経験を記しておられます。死の時を悟り、感謝の言葉を述べ、母親への伝言を頼む16歳の少女の言葉を聞くことができなかったのか。「癒すことはときどきしかできなくても、和らげることはしばしばできる。しかし、病む人の心の支えとなることは、医師にも看護婦にも、いつもできることではないか。それを私たちはやっているのか。」と反省しておられます。牧師も幼子のようにならなければなりません。医師も幼子のようにならなければなりません。課題を主と共に負うのです。重荷を負う者を主イエスは招いておられます。招きに応え、主と共に歩む安らぎを生きましょう。主は奈落に降りてわたしたちを待っておられるのですから。 |
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