| 2003年1月5日 新年礼拝 「救いをもたらす神の力」 ローマの信徒への手紙1章16〜17節 |
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2003年の銀座教会標語に「福音は信じる者すべてに救いをもたらす神の力です」が与えられました。ローマの信徒への手紙1章16節からのみ言葉です。ここには伝道に生涯をささげるパウロの明確な決断と展望が示されています。 福音を受け入れること 「わたしは福音を恥じとしない。福音は……」と16節で「福音」が繰り返されます。伝道は福音の伝道であり、信仰は福音を受け入れることに他ならないことを示しています。パウロが語る福音とは何でしょうか。 コリントの信徒への手紙一15章1〜8節にこうあります。 「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」 1章18節、2章2節にはこうあります。 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」 「なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」 パウロにとって福音とは十字架と復活なのです。主の十字架には、わたしたちの罪を赦し、わたしたちを罪から解放する力があります。十字架上に死んだ御子を甦らされた父なる神の創造の力が、わたしたちをも新しい命へと甦らされるのです。 ファリサイ派の熱心なユダヤ教徒であったパウロは、誰よりも激しくキリスト教徒を迫害してきました。そのパウロの前に復活のキリストが現れ、キリストの十字架と復活を宣べ伝える福音伝道者に造り変えられたのです。 どのような人が主の恵みに与るのにふさわしいかと考えると、自分は最もふさわしくないというのがパウロの結論です。「罪人の中で最たるもの」(Jテモテ1章15節)これが彼の自己理解なのです。 人間の知恵、しるしを求める心 「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探」すことをパウロは知っています。ギリシアのアテネ、アレオパゴスの評議所でのパウロの有名な伝道説教が使徒言行録17章に記されています。絶えず新しい知識を求めるギリシアの哲学者たちは、興味を持って熱心にパウロの言葉に耳を傾けました。「我らは神の中に生き、動き、存在する。我らもその子孫である」。ギリシアの詩人の言葉の引用は、彼らを大いに満足させたことでしょう。しかし、話が死者の復活に及ぶと、あざ笑い、聞くことを拒否したのです。アテネを去り、コリントに逃れました。「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」とパウロは述懐しています。「ギリシア人は知恵を探す」のです。理屈に合わないこと、理解できないことは受け入れられないのです。 ユダヤ人については自身がそうですから、実利、実績を求め、「大切なことは目には見えない」にもかかわらず、見えない事柄には関心をもてないのです。しかし、理解できること、実現していることは信じる必要がありません。神の恵みはわたしたちの理解を超えて深く、わたしたちの想像を越えて大きいのです。それが福音です。 福音を恥じとせず これは信仰告白の言葉です。否定形で語られているのは、多くの人々が彼の語る福音を受け入れないという事実に基づいています。彼らは福音を恥じているのです。にもかかわらず、何ものにもゆるがされない自身の強い信仰を告白しているのです。そして、今福音を否定している人たちもやがて心を変えるときが来ることを確信して、そのときを配慮しているのです。伝道者は皆この思いを持っているのではないでしょうか。「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」神の愛を映し出す信仰者の祈る姿がここにあります。 帝国の首都であるローマを訪ね、そこに既に建てられている諸教会・兄弟姉妹と出会い、福音によって励まし合い、東の果てであるスペインに伝道することを展望する中で、ローマの信徒への手紙は記されました。16章に明らかなように、首都にふさわしい大教会があるわけではありません。いくつかの家庭が礼拝のために解放されているに過ぎません。しかし、福音は、数量が第一の問題ではありません。たとえからし種のように小さくても、一粒の麦にすぎなくても、そこに福音が息づいているならば、やがて多くの実を結ぶのです。鳥たちも宿る大きさに成長していくのです。 祭司の役 手紙の冒頭で伝道計画を記したパウロは、中心部分である福音の内容を書き終えたあと、再び、伝道計画に言及しています。その15章で、福音伝道者としての自身の務めについて、「祭司の役」と言い表しています。洗礼を受け、聖なるものとされた民を神にささげるのだというのです。祭壇には、キリストの十字架の血が注がれています。十字架と復活の福音へと人々を招く務めです。 「福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です」。 この教会標語を絶えず覚えて、主から託された福音へと人々を招くキリスト者の務めに励みましょう。
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