2003年9月7日 聖霊降臨後第13主日礼拝
「豊かさと貧しさ」
コリントの信徒への手紙二8章1〜15節

長山 信夫(ながやま のぶお)
銀座教会牧師
1944年 東京に生まれる
1970年 東京神学大学大学院を卒業
宇佐美教会(静岡県伊東市)
谷村教会(山梨県都留市)
鳥居坂教会(東京六本木)
の牧師を歴任
1998年 銀座教会牧師

 逆説と並行

 与えられたみ言葉には、興味深い逆説と平行があります。パウロは、逆説的事態を統合しようとし、並行する事柄が、かい離しないように努力しているように思います。
 逆説的表現は、「苦しみ」が「喜び」に(2節)、「貧しさ」が「豊かさ」に(2節)、「他の人々に楽をさせる」ために「あなたがたに苦労させる」のではなく、「釣り合いがとれるようにする」(13節)、「あなたがたのゆとり」が「彼らの欠乏を補う」(14節)、「多く集めた者も余ることはなく、わずかしか集めなかった者も不足することはな」い(15節)、「主は豊かであったのに、貧しくな」り、「主の貧しさによって」わたしたちが「豊かになる」(9節)などです。
 並行する表現は、「信仰やその他の面で豊かであるから、慈善の業の面でも豊かであるように」(7節。)、「パウロたちの熱心がテトスの熱心を引き起こす」(16節)、「主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまう」(21節)などが挙げられています。
 一方に苦しんでいる人がおり、他方に喜んでいる人がいて、双方無関係な世界は健全と言えません。建前が本音となっておらず、表と裏が一致していない人格は、健康と言えないのです。

 エルサレム教会への援助

 パウロは具体的な事柄によってこの問題に取り組んでいます。エルサレム教会の困窮している信徒たちへの「経済援助」をテーマとしているからです。パウロはこれに相当力を入れています。コリントの信徒への手紙二8〜9章だけでなく、ローマの信徒への手紙15章、コリントの信徒への手紙一16章でもこれに言及していることからも分かります。
 エルサレム教会の兄弟姉妹の困窮について、コリントの教会はある程度すでに知っていたようです。10節に「他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいた」とあります。実情を知ることが最初の一歩です。
  
 援助の表現

 援助についてパウロは6つのことばで言い表しています。
1、「慈善の業」(4,6,7.19節)これは、ギリシャ語では「カリス」で、もともと「恵み」を意味します。
2、「奉仕」(4節と9章1節)は、ディアコニア。
3、「募金」(20節)は、「豊かさ」を意味する「ハドロテース」。
4、「贈り物」(9章5節)は「祝福」を意味する「エウロギア」。
5、「奉仕の働き」(9章12節)は「礼拝」を意味する「レイトゥルギア」。
6、「施し」(9章13節)は、「交わり」を意味する「コイノーニア」です。

 援助の業が、以上のようにきわめてキリスト教的な意味あいの濃い用語で表現されている事実は、パウロにとって、「困窮者を経済的に援助する」ことは、信仰的行為であることを示しています。
 6節で、パウロは、「始められた慈善の業をやり遂げるよう」にとテトスに勧め、11節でも、同様にコリントの兄弟姉妹に勧めています。この「始める」と「やり遂げる」という語は、フィリピの信徒への手紙では、「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(1:6)と、神の行為として述べられているのは意味深いことです。
 キリスト者にとって援助は、神のみ旨にあずかることであって、神の恵みを自覚する者こそが行うことのできる業であることを示していると思うからです。

 貧しさの中から

 パウロの要請に、コリントの兄弟姉妹は応えました。「マケドニア州とアカイア州(首都はコリント)の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意した」(ローマの信徒への手紙15章25〜26節)とあるからです。パウロの呼びかけに応えたコリントの人々も、フィリピの兄弟姉妹も、貧しい人々であったことはよく知られています。どうして援助することができたのでしょうか。
 誰も、与えられている以上のものを与えることはできません。物質的援助も同様です。大切なのは「進んで行う気持」です。それがあれば、「持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられる」(12節)。これはレプトン銅貨2枚をささげたやもめ(ルカによる福音書21章1〜4節)に告げられた主イエスの祝福と変わることのない真理なのです。
 パウロは「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい」(7節)と励ましています。
 援助は、物だけではありません。祈られていることが何よりもありがたいということがあります。贈った聖句が力となることもあるのです。
 コリントの信徒への手紙一12章8、9節では、これらは、全体の益のために用いられる聖霊の賜物として列挙されています。28節には「援助」も位置を持っています。それだけが除外されると考えるとしたら、それこそ奇妙というべきです。

 愛において豊か

 信仰者が与えられている恵みに、「愛」も挙げられています。愛の豊かさとは何でしょうか。
 わたしたちの内に神の愛を受けるにふさわしい何ものも存在しないのに、神はひとり子をさえ惜しまれない愛を示し続けてくださいます。神はわたしたちの信仰を望んでおられますが、自由を与えて決断を待っておられます。信じた者には惜しみない神の愛が溢れます。受けることにおいて豊かな愛とは、このことを言っているのではないでしょうか。

 世界の悲惨を撮り続けている写真家がいます。野宿しながらも家族を守り続ける父親、家族を失い自らも傷ついている戦争被災者の痛み、悲しみ。彼は撮り続けます。写真には、映し出されている人を、自分の友人のように感じさせ、見る人にいたわりの心を起こさせる力があると彼は確信しているのです。彼の確信を現実とする力は、受けている愛において豊かなわたしたちのうちにあるのではないでしょうか。



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