2004年2月22日 公現後第7主日礼拝
「洗礼からのスタート」
マタイによる福音書3章1〜17節

長山 信夫(ながやま のぶお)
銀座教会牧師
1944年 東京に生まれる
1970年 東京神学大学大学院を卒業
宇佐美教会(静岡県伊東市)
谷村教会(山梨県都留市)
鳥居坂教会(東京六本木)
の牧師を歴任
1998年 銀座教会牧師

 洗礼への招き

先週から4月11日のイースターに向けての洗礼準備会が始まりました。すでに繰り返しされている呼びかけに応える方が今回もおられることは、大きな喜びです。「ここに主がおられる」、「主はこの群れを祝福して下さっておられる」、そのことをわたしたちは実感します。

「父と子と聖霊のみ名によってあなたにバプテスマを授ける」。洗礼を受け、キリスト者となる瞬間(とき)に宣言される牧師の言葉です。マタイによる福音書の最後に記されている復活の主の御命令です。

受洗後を歩む人々

マタイによる福音書28章で、主は11人の弟子たちを呼び集め、洗礼を授けて人々をキリストの弟子とするようにと命じられました。洗礼は弟子集団がすでにあり、そこに洗礼を受けることによって人々が主の弟子として加えられるということだとわかります。洗礼は一人の牧師によって行われるのですが、それは群れ全体の行為です。新約学者クルマンは「洗礼において決定的なのは受洗者のために祈っている教会である」といっています。イースターに洗礼式が予定されています。他の教会から入会される方もおられます。それらの方々のために祈る者となりましょう。キリストの弟子として自分がふさわしいかどうか自己を吟味し、新しい方々を迎える私たちの準備として、自身の信仰をより確かなものとしたいと思うのです。クルマンはこうも言っています「受洗後の信仰が重要である」と。 

ヨハネとイエスの共通点

「悔い改めよ。天の国は近づいた」。これは3章3節に記されているバプテスマのヨハネの第一声であると共に、伝道を開始された主イエスの第一声でもあります。バプテスマのヨハネと主イエス・キリストとの間には多くの共通点があります。「斧はすでに木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」は、7章19節と15章13節の主イエスの言葉でもあります。ヨハネの悔い改めの伝道は拒否され、死刑に処せられましたが、主イエスも同じ運命をたどられました。「悔い改めよ、天の国は近づいた」と宣言し、終わりの裁きにたええない時代であることを明らかにしたヨハネのメッセージを主イエスも受け継いでおられることは、主が、このヨハネからあえて洗礼を受けられたことにも示されています。

ヨハネとイエスの相違点

マタイは、マルコやルカが記す「罪の赦しを得させるために」という重要な鍵になる言葉をヨハネから取り上げて、23章の聖餐式の場面での主イエスの言葉に用いています。罪の赦しの根拠は私たちの悔い改めにあるのではなく、主イエス・キリストの十字架の贖いにあるのだとマタイは主張しているのです。ヨハネの宣言は旧約の預言の成就として受け継がれなければなりませんが、主イエスの伝道は、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込む」と預言された事柄それ自体、救いそのものであることを知らなければなりません。

罪の赦し

宗教改革の時代、ドイツの画家デューラーの作品に、2枚の最後の晩餐があります。一方にはイスカリオテのユダが描かれ、他方には描かれていません。裏切るものの存在を明らかにされた主の言葉に、まさか自分ではないでしょうと疑心暗鬼になる弟子たちの醜い姿が描かれているのと対照的に、ユダが去った後の場面では、弟子たちの顔は平安に満ちています。「互いに愛し合いなさい」と教えられる主イエスの言葉に、罪の赦しの福音を見出しているからです。人生の方向を見出しているからです。

弟子は師に習うものです。弟子たちに洗礼を行うよう命じられた主は、弟子たち自身、その集まりである群れが、罪の赦しの根拠を指し示し、それを実践して生きるように、兄弟愛に満ちた群れとして神の家族を形成するようにと励ましてくださっておられるのです。教会には愛が、罪の赦しが、平和が溢れています。ここに希望があります。

主イエスの受洗

主イエスはなぜヨハネから洗礼を受けられたのでしょうか。17節の「『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が天から聞こえた。」を根拠に、人間イエスがこのとき神の子とされたという解釈もかつてありましたが、現在では否定されています。この声は主イエスに語りかけられた言葉であるよりも、そこに共にいることを赦された人々に示された神のみ旨を示す言葉だからです。

ヨハネはイエスに洗礼を授けることを固辞し、自分こそ主イエスから洗礼を受けるべきものであること、主の靴の紐を解く値打ちもない者であることを申し出ます。それではなぜ主イエスは、ヨハネから洗礼を受けられたのでしょうか。

「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」と積極的に受洗を望まれ、主イエスの伝道活動を洗礼からスタートされ、悔い改めを必要とする罪人の仲間に加わられました。私たちの信仰生活も洗礼からスタートします。こうして主の弟子としての信仰の歩みは、その始めから主が共に歩んでくださっていることを知るのです。それは終わりまで続きます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる。」との主の約束が伴っているからです。洗礼を受けることで、生涯キリストと引き離されないキリストの弟子、キリストの友、キリストに結ばれた者とされるのです。私たちの信仰があやふやになり、時にはどんなに生活が乱れたとしても、洗礼を受け、主のものとされたことは消されません。キリストに結び合わされている―それがキリスト者の毎日の生活の支えです。礼拝生活の根拠です。洗礼によってキリストに結ばれたこと、それゆえ何ものも主の愛から私たちを引き離すことができないことを、キリスト者は繰返し思い起こし歩むのです。





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