2004年4月4日 棕櫚の主日礼拝
「悲しみの道」
マタイによる福音書27章27〜44節

長山 信夫(ながやま のぶお)
銀座教会牧師
1944年 東京に生まれる
1970年 東京神学大学大学院を卒業
宇佐美教会(静岡県伊東市)
谷村教会(山梨県都留市)
鳥居坂教会(東京六本木)
の牧師を歴任
1998年 銀座教会牧師

 今日は棕櫚の主日です。この日の出来事がマタイによる福音書では21章に記されています。マルコもルカもヨハネも記す主イエスのご生涯の重要な出来事の一つです。主イエスはロバに乗ってエルサレムに入場されました。群衆は服を脱ぎ棕櫚の枝をとって道に敷き叫んだのです。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」。み言葉の成就、救いを示す重要な意味を持つ出来事でした。ここから始まる一週間を受難週として教会は主の歩みを心に刻み歩みます。救いの成就へと前進される主と、救われなければどうにもならない人間の悲惨な罪の姿があらわにされます。

 今日のみ言葉では、まず、兵士たちが登場します。過越祭にはエルサレム常駐の部隊のほか総督とともにカイサリアから来た部隊もおり、その数、600ないし1000名と推定されています。ピラトは部隊の全員をイエスの周りに集めたと聖書にあります。彼らは「イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、『ユダヤ人の王、万歳』と言って、侮辱した。唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った」(28〜31節)とあります。ユダヤ人たちは兵役につくことはできませんでしたから、兵士たちはパレスチナに住む他民族からなる雇われ兵士たちで、イスラエルの取るに足らない出来事として、イエスの逮捕から十字架の死に至る神の出来事をあざけりの対象として楽しんだのです。キリスト教に対する無関心は、現代社会の状況でもあります。主イエス・キリストはすべての人の救いのために十字架への道を歩んでおられるのにです。

 次に、取り上げたいのはユダヤ人たちです。「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。『神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。』同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。「わたしは神の子だ」と言っていたのだから』」(39〜44節)。主イエスの逮捕から十字架の死への歩みで強調されているのは、人々のあざけり、嘲笑です。主イエスは沈黙しておられます。兵士たちの背後には総督ピラトが、群衆の背後には祭司長たち、律法学者たちがいるのですから、政治的権力、宗教的権力と対比する仕方で、神の子の無力が強調されているというべきかもしれません。彼らは自分たちの権力を守るのに必死で、権能を行使して託されている勤めを果たすことに失敗し、神の子を断罪するという悪魔的罪を犯すのです。

 主イエスの沈黙は、神の子のしるしです。公の生涯の始めに荒野の誘惑をサタンの誘惑を、聖書の言葉を持って退けられ、誘惑多い世を歩むわたしたちが、何によってそれらに打ち勝つことができるのかを示してくださいました。しかし、受難の場面では主はひたすら沈黙を貫かれ、父なる神への徹底的従順を態度で示されました。フィリピの信徒への手紙2章に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」とある通りです。

 主の沈黙は、わたしたちの救いのためでもあるのではないでしょうか。児童文学者灰谷健次郎さんの『兎の目』にこういう言葉があります。「弱い者、力のない者を疎外したら、疎外した者が人間としてだめになる」。現代への警告です。さらに主の沈黙と重ね合わせるとき、教会生活のあり方を教える言葉として受け止めることもできるのではないでしょうか。弱く、無力で、救われなければならない人々が沈黙しながら教会生活を続けておられます。このような方々は教会の宝です。欠くことのできない存在です。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」(コリントの信徒への手紙J12章22節)「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです」(ローマの信徒への手紙15章1、2節)。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイによる福音書25章40節)。

 これらのみ言葉が勧めていることは、教会にキリストの愛を注ぎ込み、それによって全ての人が喜びの中に教会生活をすることができるようになるためです。

 十字架の主の苦しみに小さな慰めをどの福音書も描いています。ルカによる福音書では、十字架にかけられていた犯罪人の一人で罵るもう一人をたしなめました。ヨハネによる福音書には、十字架の真下に母マリヤと、弟子ヨハネがいたことを記しています。マタイも、マルコもそれらを記していませんが、キレネ人シモンは描いています。主が悲しみの道を歩んで倒れんばかりのとき、不意に十字架を担ぐことになった人です。アレクサンドロとルフォスの父親で教会ではキリスト者として知られていました。主が心配だったのでしょう。悲しみの道を歩む主イエスを心配して見物人の一人に加わっていました。その様子は兵士たちの目に留まり、主イエスに代わって十字架をしばらく担ぐことになったのです。

 わたしたちも、いつでもシモンの役割を担えるよう、教会に、そのかしらでありたもう主イエスにつながっていようではありませんか。






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