2004年6月6日 三位一体主日礼拝
「聖霊に満たされて」
使徒言行録4章23〜31節

長山 信夫(ながやま のぶお)
銀座教会牧師
1944年 東京に生まれる
1970年 東京神学大学大学院を卒業
宇佐美教会(静岡県伊東市)
谷村教会(山梨県都留市)
鳥居坂教会(東京六本木)
の牧師を歴任
1998年 銀座教会牧師

 今日のみ言葉は第二のペンテコステといわれる箇所です。特に31節はペンテコステの出来事を思い起こさせます。「心を一つにし」てと記されている原始教会の様子は、使徒言行録が繰りかえす教会の理想的姿をあらわしています。

祈る群れに帰る

 2度目の説教をペトロがしているとき、「祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が二人を捕らえて翌日まで牢に入れ」(4章1節)るという事件が起こりました。そして「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと脅され、釈放された」のです。ペトロとヨハネが向かったのは、兄弟姉妹のもとでした。これは当たり前のことではありません。困難に遭遇するといつの間にか教会を離れる人は少なくないのです。ヨハネによる福音書では、迫害下信徒たちの多くが群れを離れ、中には当局に通報する者たちもいたほどです。しかし、使徒言行録では、そうではありません。教会に帰り、そこでは、ますます大胆に神の言葉を語ることができるようにと熱心な祈りがささげられたのです。この祈りは、新約聖書に記された最も長い祈りの一つです。教会は祈りに専念することで、苦難に打ち勝つ支えを獲得するのです。

彼らの信仰

 「教会は、まず何よりも先に、神の創造主としての栄光に目をとめた、それと比べたなら、あらゆる人間の大きさや力は消えて行くものにすぎない。」シュラッターの言葉です。主イエスは「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」(マタイ10章29節)と教えてくださっています。全てが主のご支配のうちにあり、苦難もまた、神の救いの御計画のうちにあるのだとの信仰です。

 具体的には、詩編第2編が引用されています。裁きを神に委ね、ひたすら信仰の道を歩む詩人への祝福が描かれています。特に「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ」(詩編2編7節)との祝福の言葉は、イエス・キリストの洗礼のとき天から響いた神の言葉としてルカによる福音書3章22節に引用されています。「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して主に逆ら」うのか(詩編2編1、2節)と詩人は問います。イスラエルも苦しみました。救い主も苦難を受けられました。今同じこの世の権威が、使徒と教会を苦しめている。しかし神の支配を信じるキリスト者は揺れ動かされません。

 「教会は、すぐにも圧殺されてしまうような、ほんの小さな集団にすぎない。しかし、彼らは信仰の立場を守りつづけた。イエスの敵対者によってさえも、神の御意志以外のことは、何も起こらない。イエスを十字架架につけるにあたって、神の御旨が働いたように、今また、キリスト教徒の迫害にあたって、ふたたび神の御旨が働くであろう。教会は神の統治を信ずる。そこから教会は、死であれ、いのちであれ、迫害であれ、平和であれ、神が彼らに与えるものをすべて、引き受けることのできる服従を手に入れたのである」これもシュラッターの言葉です。

祈りの内容

 天地の創造者にして全能の主を賛美した後、教会の第1の願いは、神に敵対者の脅迫に注目してくださるようにとの祈りです。神の裁きを先取りしないように、神が迫害者に行なわれることがやわらかな表現で語られています。

 第2の願いは、「大胆にみ言葉を語ることができるように」です。すなわち、自分たちのすべての意志をその使命の遂行に集中することができるように、喜びに満ちてすることができるように、このことをこそ、彼らは祈ったのです。

 第3の願いは、病気が癒され、しるしと不思議が行われるようにです。ここで注目したいのは、原文では最後に来る荘重な言葉「聖なる僕イエスの名によって」です。私たちの祈りも「イエス・キリストの名によって」ささげられます。この「イエス・キリストの名によって」は、そうしてはならないと18節で迫害者である祭司たちが禁じた内容そのものです。このことから、「イエス・キリストの名によって」福音の伝道と直接結びついた重要な言葉であることがわかります。また、「美しい門」に座って施しを乞うていた足の不自由な人を立ち上がらせたときのペトロの言葉「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(3章6節)と結びついていることも明らかです。「金銀はわたしにはない」。ペトロの言葉はお金だけの問題ではありません。「自分には、わたしの信仰、わたしの能力といいうるものは何もない。ただあるのはキリストの名を委ねられていることだけだ。キリストの名によって歩みなさい。」これがペトロの思いであったのではないでしょうか。ドイツのミッドナイトミッションから派遣されている宣教師グドルン・シェーア先生は「ドイツの教会は伝道を日本の教会から学ばなければならない」と婦人会の新年例会の時に語ってくださいました。伝道しない教会は、その重要な力を失ってしまっているのです。復活のいのちは他を生かすいのち、他を生かす神の力です。ですから、復活と伝道とは一つに結びついた事柄です。み言葉を語る足が萎えてしまっている教会になってはいないか、反省を迫られます。 迫害する者たちの裁きを神に委ね、自分たちはひたすらみ言葉を大胆に語れるようにと祈る初代教会の祈りを、わたしたちの祈りとしたいと思います。

聖霊に満たされて

 「聖霊に満たされて」との表現は、ルカ福音書と使徒言行録にだけある言葉です。わたしたちの信じる神は、父・子・聖霊の三位一体の神です。ですから、聖霊に満たされる者は、父なる神とも子なるキリストとも力強い絆で結ばれているのです。他者の救いのために、福音を携えて旅立ちます。苦しみに合い、十字架を負うことになっても、それによってますます御子イエス・キリストと結ばれていることを感謝を持って覚えるのです。

 ザカリヤへの預言の中で、ヨハネについてこの言葉が用いられています。母エリザベトにも、同様のことが告げられます。使徒言行録では、ペトロが、ステファノが、心を一つにする信仰者たちが「聖霊に満たされ」と表現されています。伝道者パウロもそうです。

 日本の伝道も初代教会のように、迫害の中進められました。こうしてわたしたちが礼拝をささげている事実の背後に、聖霊に満たされて伝道した人々の存在を忘れてはなりません。わたしたちもまた、そのように心をひとつにして教会を形成し続けたいと思います。






All Rights Reserved, Copyright Ginza Church.1999-2004.