2005年1月9日 公現後第1主日夕礼拝
「開かれた天」
マタイによる福音書3章13〜17節

長山 信夫(ながやま のぶお)
銀座教会牧師
1944年 東京に生まれる
1970年 東京神学大学大学院を卒業
宇佐美教会(静岡県伊東市)
谷村教会(山梨県都留市)
鳥居坂教会(東京六本木)
の牧師を歴任
1998年 銀座教会牧師

主と共に歩む幸福

 インマヌエルで始まり(一章二三節)、インマヌエルで終わる(二八章二〇節)マタイによる福音書は、主が共にいてくださる幸いを伝えています。

 幸いの宣言によって始められている「山上の教え」(五章)は、「心の貧しさ」、「悲しみ」等々、人間の置かれている悲惨な状況に対する認識を示しながら、主が共にいてくださる幸いを語るのです。

 天国の労働者のたとえをご存知でしょう(二〇章一〜一六節)。マタイは労働者を雇うために朝早くから出かける主人、すなわち主なる神を描きます。人は無意味に生きることはできません。しかし、主が与えてくださった勤めであるならば、その人はすでに与えられている確かな意味をある人生を歩んでいるのです。なんと幸いなことでしょう。

洗礼からの出発

 主と共に歩む生活が、洗礼から開始されることについて、主イエスとわたしたちの間に何の違いもありません。主は信じる者たちといつも共にいてくださるのです。さらに、洗礼へと向かう求道の歩みにおいても、主はすでに共にいてくださるのです。神の国の到来に備えて悔い改めを説くヨハネの下にパレスチナ全土から続々と人々が集まりましたが、その中に、ナザレからの主イエスも加わられ、洗礼を受けられたのです。

正しいことをすべて行う

 自分こそあなたから受けなければならないとイエスに受洗を思いとどまらせようとするヨハネに、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、われわれにふさわしいことです。」と主は説得されました。

 律法と預言者の成就を基本とするマタイ福音書にとって、「正しいことをすべて行う」は最重要の言葉の一つです。洗礼が「正しいこと」の中に置かれていることはいうまでもありませんが、ヨハネが躊躇した理由、イエスが積極的に受けようとした理由が大切です。

「正しいこと」とは

 一一節に「わたしの後に来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない」とのヨハネの言葉があります。履物を脱がせるのは奴隷の仕事でした。その値打ちもないとは、ヨハネの謙虚、徹底したへりくだりを示しています。

 奢侈な生活を捨て荒野に立つヨハネに、あるべき姿を人々は見出し、優れた指導者の登場に人々は集まり、彼の前にひざまずいたのです。ヨハネは主イエスが自分よりはるかに優れた方であることを知っています。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」とは彼の正直な思いです。

主イエスのへりくだり

 主イエスがヨハネの下に来てひざまづく、ここに主イエスのへりくだりがあります。マタイによる福音書は、「インマヌエル、神共にいます」で始まり、「わたしはいつもあなた方と共にいる」との復活の主の約束で終わっていることを先に指摘しました。全体が主共にいますの宣言で囲い込まれているのです。ここで、その内側にあるもうひとつの囲い込みを指摘しなければなりません。それが主のへりくだりです。最初のへりくだりは、 ヨハネから洗礼を受けられる主のお姿です。

 もうひとつは二七章四三節と五四節にあります。「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』といっていたのだから」。「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った」とあります。主イエスは「神の子」ですから、なんでも実現することができます。しかし、主イエスは父なる神のみ旨への従順を貫かれたのです。受洗直後、聖霊の導きに従順に、荒野に導かれた主は、そこでも神の言葉への従順を貫いてサタンの誘惑を退け、福音伝道に立ち上がられたのです。「正しいこと」とはこのへりくだりです。

 「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば安らぎを得られる」。(一一章二九節)主が共にいてくださる幸いな生活、それは、主イエスに倣い、洗礼を受け、主に従順に、謙遜に歩む生活であることが示されているのです。

ヨハネのバプテスマ

 わたしたちは本来罪深く、弱い存在ですから、そのわたしたちが従順であることは当然でたやすいことのように思えます。しかし、現実はかたくな自分であることをわたしたちはよく知っています。しり込みして、立ち上がらないのです。それが主なる神のみ旨であることを知っていながら。バプテスマのヨハネの謙遜に学ばなければなりません。彼はへりくだって主イエスの言葉に従順に従い、主イエスに洗礼を授けたのです。自分が主の奴隷にもふさわしくない者であることを承知しながら。

 悔い改めのバプテスマをヨハネは授けました。悔い改めとは、人生の方向転換です。自分中心に生きてきた者が、神中心に方向を転換するのです。自分の立っている地点に変わりはありません。しかし、目指している方向が異なったのです。神中心の生活です。たとえそれが、自分にとっての十字架であっても、主と共に、大胆に父なる神に従うのです。

開かれた天

 主イエスが洗礼を受けられたとき、イエスに向かって天が開かれ、聖霊が鳩のようにイエスにくだり「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との声が天から聞こえたとマタイは記します。

 主イエスは、主なる神に従って歩むべく洗礼を受ける人々の群れに加わってくださるだけでなく、天を開いて、御国をわたしたちのうちにもたらしてくださったのです。

 「悔い改めよ。天の国は近づいた」この言葉で、ヨハネも主イエスも活動を開始しました。

 主共にいましたもう、この喜び、この確かさは洗礼を受けるわたしたちに、主の受けられた洗礼によってもたらされているのです。






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