| 2005年3月27日 復活日(イースター)主日礼拝 「先を行かれるキリスト」 マタイによる福音書28章1〜15節 |
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インマヌエルの主 み言葉の成就、そこに主の教えの権威があります。婦人たちが墓に行ったのも、主の予告どおりかどうか、復活を確かめることにありました。香料を塗るためとするマルコやルカと異なる点です。 マタイにはその他にもいくつか重要な特徴があります。キリストの昇天を描かないのもその一つです。昇天は結果的にわたしたちとキリストとの距離を強調することになります。天と地の一切の権能を与えられているキリストは、天の父と共におられ、同時に、地上のわたしたちとも共におられるインマヌエルの主なのです。復活は地上におこった神の出来事です。イエスがこの地上に、わたしたちと共に今も在るのだ、これが復活です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」この事実によって、伝道は必ず伸展し、実行困難な山上の教えも現実味を帯びてくるのです。 「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」復活の主の伝道命令です。 復活の描き方 婦人たちが墓に着くと、「主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座った」とマタイは記します。復活そのものは人間が直接見ることはできず、どのように起ったか、ということも探索すべきことではありません。人間の理解を超えることだからです。しかしマタイは、いわば傍証を固めて、復活を確証しようとしています。それは、イエスの復活を、歴史的なこととして、現実的な、確実なこととしてマタイが描こうとしていることを意味しています。 復活そのものは既に起こったこととして書かれている、その意味は深いのです。信仰は、既に起こったことを受けとることです。事が起こっている最中に、それを吟味して、正しければ信じようというのではなく、既に在ること、在ったことを受けとるか否かだけが問われているのです。 福音は、イエスの十字架の死がすでに起こり、その意味を復活によって神が確証して下さり、天使がそれを告げた、ということにあり、それがあったか無かったかという風に詮索すべきものではないのです。信仰は、人間が懸命に探求して獲得するものではありません。神ご自身が働いて、手を差し伸べてくださることにより、気がついた時に信仰者の群れに加えられていた、これがわたしたちが信仰を告白するに至った誰もが経験している事実なのです。 預言者エリヤの経験 旧約以来、神ご自身を見ることは許されていません。神が働かれるときも同様です。列王記上一九章のエリヤの話でも、神が通り過ぎられたあと、風、地震、火の跡でエリヤは主の前に立ち、主のみ声に接することができたのです。 「主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた」(11、12節) 。これがエリヤの体験です。 「地震」、「稲妻のように輝き、雪のように白い衣」によって、主の復活を伝えるマタイの描写は、エリヤの記事を思い起こさせます。また、主が十字架上に息を引き取られたとき「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」という不思議な出来事も、神のみ業を表しています。 おはよう 復活の主のマグダラのマリヤへの顕現です。日常的な挨拶の言葉です。ギリシャ語の本来の意味は、《喜べ》です。山上の教えに、「喜びなさい、大いに喜びなさい」(五章一二節)とあります。テサロニケの信徒への手紙J5章16節に「いつも喜んでいなさい」とあります。どのような苦難にも打ち勝った喜び、死を克服し、復活の主と共に生きる喜び、これを日常的な日本の挨拶「おはよう」と翻訳した意図を受け止めたいと思います。 主の兄弟姉妹として 「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」 心に深く刻みたいのは、イエスが弟子たちを「わたしの兄弟たち」と呼んでおられることです。 25章ですでに主は「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と言われています。終末の審きのときに、キリスト者の呼び名として、使われているのです。復活の主イエスによって、わたしたちすべては、神の子とされ、イエスを長子とする兄弟姉妹とされているのです。神は、わたしたちをイエスの弟妹としてご覧くださる父なる神なのです。 同時にすべてのキリスト者が、兄弟姉妹としての関係にあることを示しています。主イエスは、甦りの初穂として、勝利の主として、すべての障害を除き、限りない愛を示して、わたしたちを神の子、新しい人として創り変えて下さったのです。わたしたちがいままでの古い人間ではなくなったのだということ、復活を信ずるとは、新しい、魂の根底が、もう古いものでなくなったのだということです。それが、「わたしの兄弟たち」と主が呼んで下さることの意味なのです。父なる神もわたしたちを独り子キリストの兄弟姉妹として受け容れてくださり、罪なき者として見ていてくださる。だから、わたしたち自身も、互いに罪のない者として、兄弟姉妹として受け容れ合うことができるのです。 先を行かれる主 弟子たちはガリラヤへと戻ります。復活の主は弟子たちの先を歩まれ、ガリラヤで待っていてくださるのです。インマヌエルの主、イエス・キリストと共にある信仰者の喜びの生の開始です。
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