2006年4月2日 受難節第5主日礼拝
「人の子は罪人たちの手に」
マタイによる福音書26章36〜46節

長山 信夫(ながやま のぶお)
銀座教会牧師
1944年 東京に生まれる
1970年 東京神学大学大学院を卒業
宇佐美教会(静岡県伊東市)
谷村教会(山梨県都留市)
鳥居坂教会(東京六本木)
の牧師を歴任
1998年 銀座教会牧師

 ゲツセマネの園で主は度々祈られました。その祈りは「油絞り」を意味するゲツセマネからも想像されます。このときも、主は魂を搾り出す祈りをささげておられました。

イエスと弟子達は一緒に

 「イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て」と聖書は記します。神、共にいます。これは1章23節、28章20節に繰り返されるマタイによる福音書全体を貫く重要なテーマです。それはどのようにして実現するのでしょうか。

 弟子たちと共にいることは主イエスご自身の願いでありました。36節、38節、40節に繰り返し記されています。

 主イエスと共にいることは弟子たちの決意でもありました。それはペトロによって繰り返し表明されています。「するとペトロが、『たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません』と言った。…ペトロは、『たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません』と言った。弟子たちも皆、同じように言った」(33、35節)。

弟子たちの挫折

 主イエスが予告されたとおり、弟子たちは躓きました。弟子たちにあるのは自分への自信、特にペトロは「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と語っています。「わたしは」というペトロのこの問題の捉え方そのものが、つまずきなのです。主イエスに、「今夜あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われたとき、そうかなあ、という風に考えないこと。イエスの言ったことを素直に受けとらない。イエスの言葉をそのままにとらず、自分の判断、自信、いうことに問題を持ってゆく点に、問題があるのです。弟子たちは挫折します。しかし、イエスの願いは十字架と復活によって実現し、達成されるのです。

 ゲツセマネの祈りの場面は、教会にとって二重の「とげ」を持っていたに違いありません。第一は、「御一緒に死なねばならなくなっても」と覚悟のほどを述べた弟子たちが、その直後に師の苦しみを知らずに眠りこんだという不名誉であり、もう一つは、イエスさえも恐れおののいたという神の子の「弱さ」です。落ち着いて神を賛美しつつ殉教の死をとげていく預言者は大勢います。しかしゲツセマネの伝承を残し得たところに、教会の信仰の深さを見ることができます。やがて、教会は主イエスの悩みと決意に共鳴し、それに動かされ、同じ道を歩むようになったからです。

イエスの苦難との戦い方

 この箇所にある注解書は「模範的なイエスの苦難との戦い」という表題をつけています。苦難にあったとき、どのように対処するかをイエスに学ぶことができるというのです。

@ 心を開く 

 「わたしと共に」というイエスの頼みが操り返されています(36、38、40節)。重要なことは、ご自身の苦しみをイエスは人間に対して開かれていたということです。人は苦悩を隠蔽しがちです。しかし、「喜ぶ者とともに喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマの信徒への手紙12章15節)とパウロが言っているように、苦悩は彼個人のものでないのです。心を開くこと、イエスから学ぶ第一のことです。

A 祈り

 死の時が刻々と近づくのを感じながら、ゲツセマネにおいて主は必死の祈りをささげ、十字架のみが彼のとるべき唯一の道か否かをさぐります。この時のイエスを「悲しみもだえ」と描き、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と聖書は表現しています。

 「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(39節)。

 「主の祈り」に「試みにあわせず」とあります。試みにあうというのは神から離れることです。主が苦しまれたのは、その問題です。「死の時には肉体が霊を圧倒し、肉体が極限に達する。その時、霊なる神を見失うというのが死の恐怖の問題点である」と関根正雄師は言っています。

 しかし、主は一度目は肯定の仮定「できることなら」(39節)と、二度目は同じ内容を否定の仮定「この杯が過ぎ去らないのでしたら」(42節)と祈り、いずれも父なる神の意志を行うという表明をしておられます。こうして主イエスはご自身を信仰者の模範としておられるのです。

B 目を覚まして

 38節、40節、41節で主は繰り返されます。すでに、24章で2回、25章で1回これを教えておられます。この三回は、ペトロの三回の否認へとつながっていきます。弟子たちは、三日目によみがえらされた復活の主にお会いしたときに、目を覚ましていることもできなかったふがいない自分を、そのとき主はすでに受け入れておられたこと、まことに神でありたもう主イエスが、ご自身の苦しみを共にして欲しいと心開かれる姿に、自分の力によってではなく、すべてを神にゆだねる信仰を示されていたことを思い感謝したに違いありません。

 主イエスの悲痛な祈りに父なる神は沈黙を貫かれました。子なる神イエスは、父なる神のみ胸に従う揺るぎない信仰を示されました。イザヤ書45章15節に「 まことにあなたは御自分を隠される神。イスラエルの神よ、あなたは救いを与えられる」とあります。ご自身を隠される仕方で、主はいつも共にいてくださるのです。



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