| 2006年9月3日 振起日・聖霊降臨後第13主日礼拝 「神の国への招き」 マルコによる福音書10章13〜16節 |
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牧師 長山 信夫 9月最初の主日、振起日の礼拝を昨年より「10歳児祝福礼拝」として守るようになりました。成人式を迎えるまでのこれからの10年を教会は祈り支えたいとの願いが祝福にはこめられています。また、このときから洗礼への招きを開始しています。 10歳を人生の節目として 日野原重明先生が『10歳のきみへ――95歳のわたしから』という本を出しておられます。「各地の小学校で出張授業をするようになってからつのってきた思いです。……おとなが想像する以上に十歳前後の子どもたちは理解力にすぐれており、なおかつ感受性が豊かで、好奇心が旺盛です。子どもたちに接する機会が増えていくほどに、私は彼らに未来を託して語りたいという思いが高まってきました。おとなになってからでは直し難い考え方や習慣も、子どものうちからよい習慣を身につけるように努めていれば、さして苦もなく身につけられます。ものの考え方や生き方も習慣の蓄積だととらえれば、私の心をいま最も占拠している、いまだに実現できない世界の平和を、いままさによい心の習慣を身につけようとしている10歳の子どもたちに託したい、そう切に願うようになりました」とあとがきに記しておられます。 日本に帰化したスペイン人の神父ルイス・フォンテス師が『日本では教えてくれない人生で大切なこと』という書物に「10歳≠ニいう年齢がもつ意味」という章があります。「人間にとって10歳≠ニいう年齢は幼児期から少年(少女)期に入る重要な節目の年なのです。」と語り、スペインでは、6歳からの4年間が小学生で、人間としての基本を身につけ、中学校の6、7年間は一貫した教育をし、生徒が次第に自立していく姿を、しっかりと見守る義務が教師に課せられている」と述べています。 10歳を人生の節目と自覚するのには、合理性があるように思います。 私の所に来させなさい 「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(14節)と主イエスは招いておられます。「子供たち」(パイディオン)は幼児期から12歳までを指しています。この時期の子供たちを主は特別に配慮し、「抱き上げ、手を置いて祝福」されたのでした。 過酷な状況下の子供たち マルコによる福音書10章には3つの事件が記されていますが、どれも家族に関心をよせていることに気づかされます。 両親相互の関係(1〜12節)は離婚の不安を払拭できない現実を前提に語られています。大人(社会)の幼な子に対する関係(13〜16節)は受容ではなく拒否的です。家族 (17〜31節)の絆は、所有によってではなく、喜んで捨てること、犠牲となって自らを与えることなしには強められないことが、永遠の命を得ること、神の国に入ることとの関連で明らかにされています。競争社会の中で生きることを余儀なくされているストレスは家族関係をも蝕んでいます。過酷な状況下の子供たちのうめきは、主に従う弟子たちの口からも、「それではいったいだれが救われるのだろうか」(26節)との嘆息が聞こえます。 神の国への招き しかし注目されることは、弟子でない者たちとの会話を、主イエスはすべて弟子を訓練する教えに転換していることです。ファリサイ派の人々との会話は、律法に対する主イエスの態度を明らかにしています。富める青年との会話で、主イエスは独自な神の国の理解を語っておられます。子供たちをつれてきた人々をしかる弟子たちに対して、神の国は律法を守るとか、名声や地位を積む間題とは無関係であることを、端的に示され、受け入れるよう命じておられます。そして、「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と明言されました。 ユダヤの考え方では、幼な子の幼な子らしさとは、無垢とか純粋とかの美徳ではなく、幼な子とは、要求する権利をもたない者、他者に全面的に依存せざるを得ない者、最も小さい者の例なのです。もし幼な子を妨げてならないのなら、われわれはだれをも妨げてはならないのです。もし、神の国が幼な子のものであるなら、それはすべての人のものでもあるのです。そこに入るためになすべきことは、分自身には何もないままで喜んで招きに応えることなのです (ヨハネ3章3節、Jコリント7章29〜31節、Jペトロ2章1、2節)。幼な子の立場をとることは、だれにでもできることですが、同時に最も難しいことでもあります。「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)。 13歳のハローワーク 芥川賞作家の村上龍氏が『13歳のハローワーク』を著しました。子供の読みやすい大型でカラフルな本です。中学生になったばかりの少年少女に、進路を提示し将来の仕事を意識してもらいたいと言うことでしょう。さまざまな職業が紹介されていますが、「神父、牧師」の項もあります。どのような仕事かを紹介し、カトリックにしてもプロテスタントにしても教会は集まる信者によって成り立っているので、評判が悪くなれば他に移らなくてはならないと言う意味のことが書いてありました。それは間違いです。宗教改革者ルターを持ち出すまでもなく、職業はベルーフ(召命)であって、聖職者に最も厳しく求められている在り方なのですから。将来、神から与えられている賜物を捧げて、社会にどのように貢献していくか。「持っている物を売り払い、貧しい人々に施」す精神は、成人キリスト者が若いキリスト者に伝えていかなければならない大きな課題だと思います。 妨げてはならない 「妨げてはならない」(メ・コーリュエテ)は、使徒言行録では洗礼との関連で用いられている言葉です(使徒8章36節、10章47節、11章17節)。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(27節)。神の招きに応えて自らも主イエスの歩みに従い、受け入れてくださる主に習って、互いに受け入れあう神の国の交わりを歩みましょう。
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