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長山 信夫(ながやま のぶお)
銀座教会牧師
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| 1944年 |
東京に生まれる |
| 1970年 |
東京神学大学大学院を卒業
宇佐美教会(静岡県伊東市)
谷村教会(山梨県都留市)
鳥居坂教会(東京六本木)
の牧師を歴任 |
| 1998年 |
銀座教会牧師 |
マタイによる福音書は、復活の主にお会いした信仰者の姿を次のように表現しています。「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」(八節)重要な二つのことが言われています。「恐れと喜び」、そして「生き方の転換」です。
恐れと喜び
恐れと喜びが同時に訪れる。聖なる方に出会ったときの特徴です。恐れには、イエスを十字架につけた人々が、自分たちをもとらえにくるに違いないという恐怖もあったことでしょう。しかしそれは喜びをもたらすものではありません。人の力でも、自然の猛威でもない、ただ聖なる神のなるお姿に接したところからくる恐れです。それは大きな喜びを生み出すのです。
わたしたちは聖餐の恵みに預かるたびにこれを体験しています。パンと杯を分かつとき司式者は次のように告げます。
「……あなたのために主が体を裂かれたことを覚え、……キリストを味わいなさい。……あなたのために主が血を流されたことを覚え、……キリストを味わいなさい。」式文の一節を読んでいるに過ぎないのですが、私はいつも厳粛な思いに満たされます。受けられる方々も深い恐れを感じておられるに違いないと思います。
私たちに罪のために十字架にかかられたイエスがよみがえられて今自分の前におられる。復活のイエスのであった婦人たちの恐れと喜びを私たちも知っているのです。
急いで墓を立ち去り
死を象徴する墓を背に婦人たちは走ったのです。死は生の挫折、生の無意味化をもたらします。復活の主にお会いした信仰者それと正反対の方向に歩み始めるのです。生き方の転換、真実の悔い改め、「回心」が与えられるのです。マタイの描く復活の場面には、他の福音書に見られるような疑いは影を潜め、生き生きとした信仰者の姿が前面に示されているのです。九節の「婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」にもそれは表されています。
二七章六一節に婦人たちが「墓の方を向いて座っていた」とあり、二八章一節に「週の初めの日の明け方に、……墓を見に行った。」とあるのは、香料を塗るためと言うよりも、復活を期待してそれを確かめるために来たと考える学者がいることは興味深いことです。
マタイによる福音書においても、イエスの復活そのものは、描かれず、既に起こったこととされています。墓に到着した婦人たちの目の前で地震が起こり、石が転がり、墓の中にはすでに主はおられなかったことが示されています。空虚な墓の意味は深いのです。福音は、既に起こったことを受けとることなのであって、事が起こっている最中に、それを吟味して、正しければ信じよう、というのではないのです。既に在ること、在ったことを受けとるか否かなのです。ですから「急いで墓を立ち去り」との表現にも、復活信仰に生きるものの姿が端的に示されているのです。
ガリラヤでの出会い
「『……あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」(七節)ルカによる福音書とヨハネによる福音書では、復活の主との出会いの舞台はエルサレムですが、マタイによる福音書はマルコによる福音書と共にガリラヤが出会いの場となっています。そこは弟子たちの出身地であり、生活の場です。その意味は、復活はこの地上におこったことで、イエスがこの地上に、われわれと共に、今も在るのだ、ということを示しています。弟子たちは主から大伝道命令を受けます。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(一八〜二〇節)
ガリラヤとの関連では、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」が重要です。そこで主は山上の教えを語られました。主イエスは律法と預言者を廃棄するためではなく、成就するために来られたのであり、主に従う者たちは、主の教えによって律法学者やファリサイ派の人々の義に勝る義を実現することが求められているのです。高度な基準の義、すべてを神に委ねる生活、一体誰ができるのかと考えたに違いありません。しかし、今は違います。自分たちのために十字架にかかり、よみがえられた主が共におられるのですから。
行く手にイエスが
「弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。」(一六〜一八節)マタイが描く弟子たち復活のイエスとの出会いの場面です。山に登る弟子たちの行く手にイエスが現れ、近寄って来られたというのです。マタイによる福音書はヨハネによる福音書と共に、主イエスの昇天を記しません。疑う者もいた一一人の弟子たちの所に近寄って来られた。天に昇られるのとは逆に、降りて来られたのです。
復活の事実を弟子たちに知らせるために走る婦人たちの前に立たれた復活の主もまた同様です。「イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので」す。(九節)降りてきて弟子たちを出迎えた復活の主は、婦人たちをも同様に迎えてくださったのです。
復活のイエスとの出会い
実は、墓を見張っていた番兵たちもイエス復活の事実に遭遇しました。彼らから報告を受けた祭司長や長老たちも事実を知ったのです。しかし、彼らは最悪の反応を示しました。「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようにな」(四節)り、祭司長や長老たちは「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい」(一三節)と番兵たちに金を渡して嘘の噂を広めさせたのです。を命じたのです。
彼らの最悪の応答は、主イエスの誕生のときもそうでした。東方の占星術師たちの「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますかとの問いに、ヘロデ大王は幼児虐殺の命令で応じたのです。
わたしたちは今、現にいましたもう復活の主の招きに応えて礼拝を捧げています。一章で「その名はインマヌエル、神は我々と共におられる」と告げられた主が、二八章で「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださっていることを知り、信じています。そのことを感謝しましょう。
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