| 2007年12月2日 待降節第一主日 「救いは近づいている」 ローマの信徒への手紙13章8-14節 |
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スタートは待望 今日はアドヴェント第一主日、教会の元日です。「待つ」、それがわたしたちの生の根本的あり方であることを告げています。 「夕べがあり、朝があった。」(創世記一章五、八、一三、一九、二三、三一節) 天地創造の御業の一日一日を締めくくる御言葉が示す通りです。一日は暗闇の中に、光に包まれる朝を待望して始まるのです。 闇の中に光を見る ――キリストの誕生 ルカはクリスマスの夜を描きます。「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らした……。」(ルカによる福音書二章八〜九節) 真の人となりたもうたキリストは、闇の中に来られます。そして闇を歩むわたしたちと共にいてくださいます。罪人の食卓に共に着いてくださるキリスト、病める者に触れてくださるキリスト、無力な幼子をひざに乗せ祝福してくださるキリストに、「自分の中にある『新たに生きるという確信』、前に自分が積み上げていた、世や社会で行きぬく自身と別次元のもの」(工藤信夫著『人生を支え導くもの』病む牧会者より)を信仰者は見出しているのです。 罪と死の克服 ――キリストの復活 ヨーロッパ中世後期の人々の関心が「以下に正しく死に臨むか」であったのが、一六世紀になると「いかに正しく、道徳的に生きるか」へと変わったといわれます(森洋子著『ブリューゲルの諺の世界』より)。その背後に、宗教改革、ルターやカルヴァンによるキリストの福音の再発見があったことは言うまでもありません。 今日の御言葉には、「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。……愛は隣人に悪を行いません。……救いは近づいている」(八〜一〇節)など積極的な生への力強い展開があります。その根底にはローマの信徒への手紙八章が示す次の事実があります。 「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放した……。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。…… 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。」 今がどんな時であるか 「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいている。」(一一節) クリスチャンは「時」を知っています。洗礼は復活のキリストと結ばれることです。わたしたちはキリストの体の部分、ぶどうの木の枝としてキリストにしっかりと留まるのです。生命をもたらす霊の力がわたしたちのうちに働き、わたしたちの生活を守り導いていること、救いの確かさがわたしたちの現在の時の中に入り込んで来ていることをわたしたちは知っています。 罪の支配下に迎える死は恐怖をもたらします。罪と死を克服された復活のキリストに結ばれた生は、愛による律法の成就をもたらすのです。 「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように」(テサロニケの信徒への手紙一、五章二三節)との祝福の祈りに支えられ、「 あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます」(同上二四節)とのみ言葉を信じて歩むのです。
終末に備えて ――キリストをまとう 洗礼以前は、ユダヤ人やギリシア人として、また女性や男性として、また奴隷や自由人として互いに異なり、社会的に分け隔てられていた者であったとしても、洗礼によって、キリストの愛によって義とされた者として、いつも、「互いに愛する」ということを意味し、「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」をもたらすかつての夜の業を捨て、「日中を歩むように、品位をもって歩」む決断へと導かれるのです。キリストに救われた者にふさわしい歩みは、いわば全ての者に同じ身なりをさせる衣としてのキリストを着て、毎日互いに対する全ての振舞いにおいて、唯一のキリストの愛に倣うべきなのです。 救いの完成 ――キリストの再臨 赦された罪人が、その恵みに応えて「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着け」たとしても、「愛の律法を全う」することができるのでしょうか。「眠りから覚めるべき時」(一一節)「夜は更け、日は近づ」(一二節)き、再臨のキリストをお迎えする時、わたしたちはそれにふさわしい者となっているのでしょうか。 やがて、主を否むことになるペトロに、主は事前に告げておられます。 「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マタイによる福音書二六章二七〜二八節) 再臨のキリストを迎えるわたしたちについて、パウロは語っています。 天にある既に眠っている人々は復活して朽ちない者とされ、生きている者たちも、一瞬のうちに朽ちない者に変えられる。 「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」コリントの信徒への手紙一、一五章五一〜五二節) そこでパウロは、「わたしに倣うものとなりなさい」と命じます。 「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」(フィリピの信徒への手紙三章一二節) 信仰に励み、救いの完成のときを確信して待つ、それがキリスト者の生活です。 降誕のキリストを待つアドヴェベントは、共にいましたもう復活のキリストに結ばれて、救いの完成者である再臨のキリストを待つ時とでもあることを覚えましょう。
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