| 2001年1月28日 公現後第4主日礼拝説教 「主の恵みの年」 ルカによる福音書4章14-30節 |
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エルサレム神殿は礼拝や供犠の場所として、会堂は祈祷や聖書朗読など聖書を教える場所として、ユダヤ人の宗教生活の中心的な役割を担っていました。会堂では一日三回の礼拝がもたれ、祈祷に始まり、シェマーといわれる信仰告白、祈祷、詩編朗唱と続き、安息日には特に律法と預言者が朗読され、その解釈が加えられました。10人以上の成人男子がいれば、どこにでも建てられたといわれる1,000を越す会堂は、聖書の成就としての福音を伝える初期キリスト教の伝道の中心的場となりました。 旧約の成就としての福音 律法と預言者の朗読とその解釈は律法学者の任務でしたが、ユダヤの成人男性であれば誰でも行うことができました。立って聖書を朗読し、座って解きあかす主イエスに、「会堂にいるすべての人の目が注がれていた」(20節)との描写も特別のことではありません。 預言者だけが読まれ律法に触れていないのは、荒野の誘惑の記事で、すでに律法を取りあげたからだろうと考えられています。 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語り始められました。主イエスにおいて神の救いの約束は成就しており、耳にしたそのときその人に実現しているとの言葉は、大切な教会の信仰の表明です。神の言葉は福音が語られ信仰をもって聞かれるとき実現しているのです。 エリヤとエリシャ 「この人はヨセフの子ではないか。」(22節)との言葉に、信仰の対象としてではなく、自分たちと同じ民族の背景から、自分たちに特別の便宜を図ってくれるに違いない身内として故郷の関係から考えようとした郷里ナザレの人々の閉鎖性が見られ、それに対して列王記上17、18章に記されたエリヤとエリシャの働きが紹介されます。二人の預言者はユダヤ人ではなく異邦人に遣わされたというのです。 彼らの激昂 人々の激しい怒りが三つの言葉で表されています。
貧しい人に告げるため エリヤとエリシャの行動は特例なのでしょうか。そうではありません。彼らの激昂は肉的なものであって聖書的根拠はありません。福音はすべての人に約束された恵みです。自己のうちに独占してはいけません。その日主イエスはイザヤ書61章112節前半に58章6節の一部を合わせて朗読されました。「貧しい人」とは、後に続く「捕らわれている人」「目の見えない人」「圧迫されている人」の総称です。安息日に癒しを行われる主イエスを律法違反として陥れようとした人々の姿から、逆に、貧しい人々への福音を語るイザヤの預言に、ユダヤ民族の基本である安息日律法を超える精神を読みとらなければならないと聖書学者は考えるのです。 キリスト者にとって、日曜礼拝厳守は信仰生活の基本です。しかし、それは閉鎖的なものではなく、すべての人に開かれています。それが伝道の根拠であり福音の本質がそうさせるのです。 主の恵みの年を告げるため イザヤ書61章2節は後半が除かれています。そこには「わたしたちの神が報復される日を告知して嘆いている人を慰め」とあります。ユダヤの勝利のための神の行動を約束する言葉の主イエスによる削除には意味があります。洪水の後、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい」(創世記8章21節)と誓われた神は、雲の中に虹を置いて契約のしるしとされたのですから。 「恵みの年」とは、ヨベルの年です(レビ記25章)。昨年のキリスト降誕2000年をジュビリーつまりヨベルの年、解放の年としようとの呼びかけが世界各地から提案されました。しかし、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語られた主イエスは、解放は50年に一回のことではなく、御言葉が聞かれる所ではいつでもどこでも誰に対しても実現しているのだと宣言されたのです。 神を愛し、隣人を愛する 激昂し、キリストの言葉を聞くことのできなくなった会衆の姿は、わたしたちキリスト者への戒めではないでしょうか。すべての人を救いへと招く教会で、救いを求めて隣りに座る会衆と共に、自己追求から神追究、自己愛から隣人愛へと飛躍しようではありませんか。溢れる主の恵みが既に実現しているのですから。 |
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