| 2011年7月24日 銀座教会創立121周年記念礼拝 「一つの心、一つの道」 エレミヤ書 32章36-42節 |
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聖書を貫くもの ところで、旧約聖書学者であった左近淑先生はこう言っておられます。「初めから終わりまで聖書を貫いている一つの神がある。旧約聖書と新約聖書で、もし違う神が語られているとするならば、決して一つの正典にはならない。なぜ新約聖書が旧約聖書と一つとなって、聖書宗教というふうにキリスト教が考えるのかというと、神が一つだというか、旧約聖書から新約聖書へと一貫したものを受け取っているからだと私は考えるわけです」。 モーセの暗い過去 旧約宗教の代表者モーセを、聖書は重罪人として描きます。 エジプトに生まれたイスラエル人モーセは、王子として宮廷に育ちます。紀元前13世紀頃のことです。成長したモーセが町に出ると、同胞がエジプト人である監督に打たれています。 「モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた」(出エジプト記2章13節)。 やがて王の知るところとなり、王はモーセの殺害を命じます。モーセはミデアンの地へと逃亡します。殺人、死体遺棄、証拠隠滅、そして逃亡です。聖書はモーセを少しもかばおうとしていません。 苦しみに目を留める神 ミデアンの地にひっそりと暮らすモーセに、主はご自身を顕され、こう告げられます。 「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る」(同3章7、8節)。 「モーセよ、モーセよ」と呼びかけ、彼の日々を覚えていてくださった主なる神は、エジプトにいるイスラエル人の苦しみをつぶさに見、叫び声を聞き、痛みを知ってくださっていたのです。「つぶさに見」「痛みを知る」という言葉には、「そこへと降りていって、共に味わい経験する」というヘブライ語の数少ない独特の表現があると左近先生は言われます。 インマヌエルの主 モーセに御旨を示された主は、彼を出エジプトの指導者として失意の生活から引き出されます。繰り返し辞退するモーセは、自分が罪人であり、主の御旨に用いられるのにふさわしくない者であることをよく知っているのです。 「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」(同3章12節)と約束された主は、決定的なことを告げられます。主の名を問うモーセに「わたしはある。わたしはあるという者だ」(同3章14節)と言われたのです。モーセに導かれてイスラエルの民は約束の地へと入ることができたのです。 ユダ王国の滅亡 紀元前六世紀のことです。約束の地に栄えたイスラエルはソロモン王以降分裂し、北イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ、南ユダはバビロニアによって包囲されています。預言者エレミヤは南ユダに遣わされた預言者で、滅亡の預言を展開します。 「主はこう言われる。見よ、わたしはこの都をバビロンの王の手に渡す。彼はこの町を占領する。ユダの王ゼデキヤはカルデア人の手から逃げることはできない。彼は必ずバビロンの王の手に渡され、王の前に引き出されて直接尋問される。 ゼデキヤはバビロンへ連行され、わたしが彼を顧みるときまで、そこにとどめ置かれるであろう、と主は言われる。お前たちはカルデア人と戦っても、決して勝つことはできない」(エレミヤ書32章3〜5節)。 徹底的敗北主義にエレミヤが立ったのは,南ユダの罪をお赦しにならない主なる神がバビロニアのネブカドネザル王を用いて裁いておられるのだから、これに服さなければならないという信仰からくる認識です。しかし王は、主の裁きを受け止めることができず、エジプトに頼ってバビロニアの脅威を回避しようとしていたのです。ゼデキヤによって、エレミヤは宮殿にある獄舎に拘留されています。 最悪の事態の中で 南ユダにとっても、エレミヤにとっても最悪の事態です。そのような中、エレミヤは、アナトトの畑を買う契約を結ぶのです。 レビ記25章25節の「もし同胞の一人が貧しくなったため、自分の所有地の一部を売ったならば、それを買い戻す義務を負う親戚が来て、売った土地を買い戻さねばならない」という規定の履行です。 購入証書に署名してエレミヤは祈ります。32章26節からは、祈るエレミヤへの神のお応えです。35節までの裁きの言葉から一転し、37節からは恵みの言葉が告げられます。39節にこうあります。「わたしは彼らに一つの心、一つの道を与えて常にわたしに従わせる。それが、彼ら自身とその子孫にとって幸いとなる」。 エレミヤは、一時的に国土がバビロニアの手に渡っても、主なる神は必ずこれをその民の元に戻してくださると確信するのです。これを分岐点として、エレミヤは滅びの預言から、救いの預言者へと転換していくのです。 バビロン補囚の二重の意味 バビロン捕囚の経験は、二重の意味を持っています。 一方ではイスラエルヘの義なる神の裁きの業、他方では神の裁きは滅亡が終極の目的ではなく、救いこそが神の究極の目的であるという主の御旨です。忠実な残りの者に神は約束通り再び地を賜物として与え、平和な日々を取り戻させてくださる。エレミヤは確信します。 救いをもたらす神の恵み 出エジプトの出来事、バビロン補囚の経験には、義と愛の神のお姿が明瞭に示されています。そこに、モーセとエレミヤ、神に用いられた信仰者の実存が浮かび上がってきます。 主なる神は、現代世界の苦悩をつぶさに見、痛みを知ってくださり、信仰者とその群れを用いて、救いのために、今も働いていておられるのです。 |
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