2001年4月1日 受難節第5主日礼拝説教
「主のもとに招かれ」
ヨハネによる福音書 12章20節〜36節

長山 信夫(ながやま のぶお)
銀座教会牧師
1944年 東京に生まれる
1970年 東京神学大学大学院を卒業
宇佐美教会(静岡県伊東市)
谷村教会(山梨県都留市)
鳥居坂教会(東京六本木)
の牧師を歴任
1998年 銀座教会牧師
ただひとつの慰め
 「生きるにも死ぬにも、あなたのただひとつの慰めは何ですか。」「わたしがわたし 自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス ・キリストのものであることです。……今から後この方のために生きることを心から 喜び、また、それにふさわしくなるように、整えてもくださるのです」。ハイデルベ ルグ信仰問答第一の問とそれに対する答えの最初と最後の部分です。  互いに受け入れ合うことができない罪深い人間、塵に過ぎない取るに足りないわた したちを父なる神は主イエス・キリストのもとに受け入れてくださる。ここには深い 慰めがあります。尽きることのない喜びがあります。人生の意味が力強く謳われてい ます。

どのようにして
 どうしたらわたしたちは主のものになることができるのでしょうか。32節に「わ たしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」、6章 44節には「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわ たしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」と あります。主イエス・キリストだけでなく父なる神もわたしたちをみもとへと引き寄 せてくださるのです。 「引き寄せる」との言葉は、ヤコブの手紙 2章6節では「(裁判所へ)引っ張って行 く」と用いられており、非常に強く引き寄せる、わたしたちの抗することのできない 力であることがわかります。

栄光を受けるとき
「人の子が栄光を受けるときが来た。」これは十字架と共に、復活、昇天、聖霊降 臨、さらには再臨をも包含するヨハネによる福音書の重要な言葉です。2章で母マリ ヤの頼みにもかかわらず「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの 時はまだ来ていません。」と断り、まだ来ていないと繰り返されてきた主イエスが、 12章以降、時が来たことを明言され続けた分岐点が今日の聖書箇所なのです。 ギリシア人が弟子になりたいと申し出てきました。ヨハネによる福音書は、ギリシャ 人に救いから最も遠い存在である異邦人を代表させています。蒔かれた神の種は、ユ ダヤ人また異邦人の中に少数ではありますが、芽を出し根を付け成長し始めた。これ はやがて多くの実を結実する。すべての人を救いへと招く栄光の時がきたことを知 り、まずご自身が一粒の麦となることを決意されたのです。

一粒の麦
 ですから、「地に落ちて死ぬ一粒の麦」について、第一に主イエスご自身を思うべ きです。「この方はご自分の尊い血を持ってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔 のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。また、天にいますわたしの父の 御旨でなければ、髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてく ださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです。そしてまた、ご自身の聖 霊によりわたしに永遠の命を保証し」。先に引用したハイデルベルグ信仰問答第一の 問に対する答えの割愛した部分です。

心騒がされるキリスト
 「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われ る。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたし は彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」エレミヤ書 31章33節の言葉です。 マタイによる福音書には「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される わたしの血、契約の血である。」とあります。主イエス・キリストの受難と死によって 結ばれる新しい契約です。今日の御言葉には「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。 『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさに この時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」とあります。 死を前にして主イエスは心の深い感動を持って父なる神の御心に生きるべく前進され るのです。  今日、聖餐の恵みに共にあずかろうとしています。わたしたちは主のものとされて いる、この確かな恵みを感謝を持って味わいましょう。また、主はすべてのものをみ もとに引き寄せてくださることを覚え、主の業である伝道に共に励む決意を致しま しょう。

人間の心の一新
 ノーベル賞授賞式で、ある文学者は「すべての人にほめられるとき、あなたがたは 不幸である。」とのルカによる福音書を引用してスピーチしたそうです。「地に落ち て死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、」を注解するときに、新約学者 スローヤンによって紹介されている言葉です。批判にさらされ、地におとしめられて いる人々にとっても、自らの貧しさを知り、説教に苦闘している多くの牧師たちに とっても慰めの言葉です。しかし、25節にはあるいは当てはまるかもしれませんが、 より積極的な仕方で語りなおされている26節には不適切と言うべきではないでしょう か。地に蒔かれるのは多くの実を結ぶためという明確な目的があるのです。ゲッセマ ネで主は「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と祈られました。 自己中心的な自分を放棄するだけでなく、大目的である「御心のために、自己を捧げ る」意味のある時を歩むべきではないでしょうか。神に造られた命は神が独り子をさ え惜しまれないほどに大切なのですから。

光のあるうちに
 「光のあるうちに歩きなさい。」「光のあるうちに、光を信じなさい。」と主はわ たしたちを励ましてくださいます。光と闇、ヨハネによる福音書に特徴的な二元論で す。ギリシャ的二元論ともグノーシス的二元論とも異なり、旧約的背景を明確に持っ ていると新約学者ハンターは言っています。すべてを造り、支配したもう方が、闇に 対する光の勝利を、死に対する命の勝利を実現してくださっておられるのです。引き 上げてくださる主にすべてを委ねて、主のもとに招かれるにふさわしいものとして造 り変えていただく歩みを共に歩んで参りましょう。主イエスの時、栄光の時はすでに 到来しているのですから。



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