| 2002年1月6日 新年礼拝 「わたしの神」 創世記 28章10-22節 |
||||||||||
「わたしは必ずあなたと共にいる」。モーセに語りかけられた主のお言葉が、 昨年に引き続き今年の教会標語です。この言葉にどれほど多くの人々が力づけ られ、励まされ、慰められてきたか、はかりしれません。 「共生」、これは人間のあり方を測るものさしとなっていますが、まず何より も、神がこれを決断し、わたしたちと「共生」しておられることを覚えなけれ ばなりません。そこに被造物相互の真の共生の土台があるのです。共にいると の感謝すべき約束は、聖書を貫くメッセージです。 モーセに、ヨシュアに、エレミヤに、主はこの約束をしておられます。主は、 使命のために召し出した人々がそれを果たすことができるように共にいて力と なってくださるのです。争いの中に置かれている者、失意のうちに、あるいは 不遇のうちにいる者にも、主の約束は語りかけられています。彼らが必要とし ているのは助けです。ヤコブにはそれが与えられました。祝福を兄エサウから 奪い取ったヤコブが野宿をしていたとき夢をみたのです。天が開け、はしごが 地に向かって降りており、神の使いがそこを上り下りしています。自らまいた 種とはいえ、苦しみは天に覚えられているのです。主自らが傍らに立ってこう 言われました。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、 わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束し たことを果 たすまで決して見捨てない」(創世記28章15節)。 「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」と驚きをもっ てヤコブは述懐しています。神に仕える者とも、神の助けを必要とする者とも、 主は共にいてくださるという事実は、わたしたちを勇気づけます。「神はどの ような人と共にいてくださるのか」、「わたしのようなものとは共にいてくだ さらないのではないか」とわたしたちは思い悩みます。しかし、主はいつも共 にいてくださるのです。人はみな罪に苦しみ、死と戦っているのです。自分で 責任をとらなければならない苦しみであっても、そこから立ち上がるとき、そ の日々は多くの同じ苦しみの中にある人を励まし支えることになります。罪人 を救うためにひとり子をさえ惜しまれない主のみ心でもあります。「あなたが わたしと共にいてくださる」。これは詩編23編の言葉です。共にいてくださる 主を信じて歩む人は、詩編二三編の詩人の信仰を体現しているのです。これに 失敗した信仰者の姿が、イザヤ書七章に記されています。 ダビデ、ソロモンと繁栄した国は既に北と南に分裂していました。強大になっ たアッシリアが周辺諸国の脅威でした。北イスラエルはアラム、ペリシテと同 盟を結び、巨額な貢物を要求し、属国となることを強要するアッシリアに立ち 向かおうとし、南ユダの参加を求め、軍隊を差し向けておどしてきました。 「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」とあります。 主は王アハズに語りかけます。「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れるこ とはない」。「信じなければ、あなたがたは確かにされない」。「主なるあな たの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に」。陰府 はアッシリアを、天は神を意味しています。主は民がご自身のもとに来ること を願っておられるのです。「信じなければ、あなたがたは確かにされない」 (9節)。この「信じなければ」はわたしたちが祈りのたびごとに唱和する 「アーメン」を意味する言葉です。共にいることを約束してくださる主にアーメン と応えることによって、わたしたちは、確かにされるのです。アハズはそうし ませんでした。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」と答え、 アッシリアに民をおとしめたのです。実はアッシリアは南ユダを支配すること によって背後に控えるエジプトを刺激することを望んでいませんでした。王は 自らアッシリアの軍門に下る愚かを犯したということになります。イザヤは 「あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神に も、もどかしい思いをさせるのか」と語り、自分のもとに来ようともしない民 を引き寄せるために主がいても立ってもいられない思いであることを示します。 そして告げられたのがインマヌエル預言です。「わたしの主が御自らあなたた ちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名 をインマヌエルと呼ぶ。災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで彼 は凝乳と蜂蜜を食べ物とする」。生まれてくる子、インマヌエルとの名を持つ 方は誰かが問題です。その方なしに主はおられないのですから。王位を継承す るアハズの子でしょうか、それとも預言者イザヤの子でしょうか。しかし、彼 らは既に生まれ、成長しているのです。それではだれのことを言っているので しょうか。 インマヌエル、「この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」 とマタイによる福音書1章に記されています。この言葉は、銀座教会大礼拝堂 の聖餐卓の横木にヘブライ語と日本語で刻印され、片時も忘れないようにと大 切にしている言葉です。み子イエス・キリストこそ、その方です。主は陰府に 降り、罪と死を引き受けてくださるという仕方でわたしたちと共にいてくださ います。死からよみがえられることを通して、わたしたちの命を天に引き上げ てくださる仕方でもまた共にいてくださるのです。「わたしは必ずあなたと共 にいる」との約束は、主イエス・キリストを信じるときに実現しているのです。 そして、主はわたしのもとに来なさい、とすべての者を招いておられるのです。 |
||||||||||